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大内啓伍から見た細川護熙
1990年の第39回衆議院議員総選挙では、旧東京2区から民社党公認で立候補。4年ぶりに当選し、衆議院議員に返り咲いた(入れ替わる形で、前回最下位当選の岡崎が落選)。この総選挙で民社党は20議席を割り込む大敗を喫し、永末英一委員長が引責辞任。後任の民社党委員長には、大内が就任した。同年、鈴木尚之を秘書に採用。1992年の第16回参議院議員通常選挙では、民社党の獲得議席は4議席に留まり、同党は院内交渉会派から転落した。1993年7月の第40回衆議院議員総選挙では解散前微増の15議席を獲得する。この総選挙の結果を受け、民社党を含む非自民8党派は細川護熙を首班に、連立政権の発足で合意。細川内閣で大内は厚生大臣に任命され、初入閣した。(大内啓伍 フレッシュアイペディアより)
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永野茂門から見た細川護煕
翌1994年4月、細川護煕首相の突然の辞任を受け、新生党党首の羽田孜が内閣総理大臣に就任し、羽田内閣で法務大臣に任命される。この際、陸上幕僚長を経験した職業自衛官出身の大臣の誕生に対し、文民統制の観点から異議を唱える声も一部から上がった。法相就任直後、毎日新聞のインタビューにおいて「私は、あの直後に南京に行っている。南京大虐殺はでっち上げだと思う」と発言。事実上更迭される形で在任わずか11日で法務大臣を辞任した(戦後大臣通算在任記録では、2007年に遠藤武彦農林水産大臣の在任が8日間となるまで、同じ法務大臣を1988年暮れに4日間で辞任した長谷川峻に次ぐ最短記録である)。法相在任期間が短かったため、死刑執行起案書はまわってこなかった。(永野茂門 フレッシュアイペディアより)
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矢田部理から見た細川護煕
1994年、社会党が与党して参加した細川護煕内閣が政治改革関連諸法案を上程し、社会党も公職選挙法改正賛成を決定したのに際し、矢田部はそれまで社会党が抵抗してきた小選挙区制の導入が含まれると反対して参議院本会議採決で反対票を投じ、処分された。続いて、社会党が自民党・新党さきがけとの連立を組んで村山富市委員長が首相になったのを受けて、従来の基本方針を転換して日米安保条約を容認し自衛隊を合憲と規定し、次いで1996年1月から社会民主党への党名改称を決めると、党名改称直前の1996年1月1日に小森龍邦らと共に離党を宣言し(党は離党届を受理せず除名処分を下した)、新社会党を結党して初代委員長となった。(矢田部理 フレッシュアイペディアより)
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民主友愛太陽国民連合から見た細川護煕
しかし、第18回参議院議員通常選挙を臨むには統一会派ではやはり限界があり、統一新党の結成を目指す動きが活発になった。そのため細川護煕が新党準備委員会議長に就任して各党と折衝を行った。(民主友愛太陽国民連合 フレッシュアイペディアより)
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横尾俊彦から見た細川護煕
佐賀県多久市生まれ。佐賀県立小城高等学校卒業。1980年、慶應義塾大学法学部を卒業し、松下幸之助が創設した財団法人松下政経塾に入塾(第1期生)。同期生には野田佳彦(第95代内閣総理大臣・民主党衆議院議員)、逢沢一郎(自由民主党衆議院議員)、小野晋也(元衆議院議員)、岡田邦彦らがいる。カナダ留学を経て、松下政経塾を卒塾後は地元・佐賀県多久市に帰郷し、市民運動に参加。1992年、松下政経塾の評議員を務めていた細川護煕の動きに呼応し、日本新党結党に参画。翌1993年の第40回衆議院議員総選挙に佐賀県全県区(定数5)から日本新党公認で出馬したが、得票数7位で落選。1996年、第41回衆議院議員総選挙に佐賀県第2区から新進党公認で出馬したが、自民党の今村雅弘に敗れ、再び落選した。(横尾俊彦 フレッシュアイペディアより)
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