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細川護熙から見た佐藤栄作
細川自身は保守系無所属としての出馬を選んだ(社会党は松前の後継に藤崎久男を擁立したが落選)。首相の佐藤栄作に面会すると、田中角栄に会うよう勧められ、田中には「当選ラインは6万票。選挙までに3万軒、戸別訪問しろ」と言われ、いわゆるどぶ板選挙を行った。しかし細川家の末裔とはいえ、家の支援は望めず、有権者にとっては無名に近い存在だった。結果、戸別訪問も目標の半分しかできず38,632票で落選したが、戸別訪問で回った地域は、不思議なくらい票が伸びたという。1971年の第9回参議院議員通常選挙では全国区から自由民主党公認で出馬し、石原慎太郎などの支援を得て当選するが、後に石原とは袂を分かち田中角栄の七日会(田中派)の旗揚げに参加する。2期目は熊本県選挙区から出馬し当選、官職では大蔵政務次官などを歴任。党職では自由民主党の参議院副幹事長を務めている。(細川護熙 フレッシュアイペディアより)
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細川護熙から見た大内啓伍
政治改革関連法案が曲がりなりにも成立し、高い内閣支持率もそのまま維持した。2月3日、これに意を強くした小沢一郎と大蔵事務次官の斎藤次郎のラインに乗った細川は、消費税を福祉目的税に改め税率を3%から7%に引き上げる国民福祉税構想を発表した。しかし、これは深夜の記者会見で唐突に行われたもので連立与党内でも十分議論されていないものであったため、世論はもとより内閣官房長官の武村正義や社会保障を所管する厚生大臣で民社党委員長の大内啓伍、社会党委員長の村山富市ら、与党内からも反対の声が沸き上がり、結局翌2月4日に連立与党代表者会議で白紙撤回に追い込まれた。(細川護熙 フレッシュアイペディアより)
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細川護熙から見た源義清 (矢田判官代)
細川氏は足利氏の支流で本姓は源氏。河内源氏の棟梁として知られる鎮守府将軍源義家の子、源義国の庶長子、矢田義清の子、広沢義実の次男である細川義季を祖とする。足利氏の有力一族の一つであり、室町時代には細川家宗家嫡流(京兆家)の細川頼之・細川勝元・細川政元らが管領として力をふるったが、生涯独身を貫いた政元が細川家の2人と近臣の1人を養子とした際には諍いが起き、政元本人も巻き込まれ殺害されてしまい、細川氏は一旦没落してしまう。江戸時代に熊本藩主となった細川家は、近世初期の文化人武将として知られる細川藤孝(細川幽斎)を祖とし、その子の細川忠興を初代藩主とする。藤孝は細川家の分家である和泉上守護家(細川頼之の弟細川頼有の子孫)の出身であるが、。忠興の妻はオペラなどで知られる細川ガラシャであり、護熙は系図上の子孫に当たるが、養子を経たためにガラシャの子孫ではない(ただし女系ではガラシャの血を引いている)。遠い親戚には評論家の細川隆一郎(細川忠興・ガラシャ夫妻の長男で当初嫡男だった細川忠隆の子孫)がいる。以降熊本藩主家は明治期には華族・侯爵家となった。なお養子を男系親族からのみ迎えており、源義家以来、男系で続いている。(細川護熙 フレッシュアイペディアより)
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