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  • 纒向遺跡

    纒向遺跡から見た土師器

    弥生時代終末期から古墳時代前期にかけての土器が出土しており、出土した弥生土器・土師器により纒向編年がなされている。それによれば、弥生土器第V様式(纒向1類)、庄内式土器(纒向2類・纒向3類・纒向4類)、布留I式(纒向5類)の5期に時代区分がなされている。纒向遺跡 フレッシュアイペディアより)

  • 纒向遺跡

    纒向遺跡から見た記紀

    また、平安時代初期の「大市」墨書土器があり、この地が『倭名類聚抄』記載の「於保以智(おほいち)」郷に相当するとみられ、『日本書紀』記載の海柘榴市も纒向遺跡南に比定されていることから、纒向が後世に至るまで市的機能を有していたことが知られており、さらに『記紀』では崇神天皇・垂仁天皇・景行天皇の磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)、纏向珠城宮(まきむくのたまきのみや)、纏向日代宮(まきむくのひしろのみや)が存在したとの伝承が記載されている。纒向遺跡 フレッシュアイペディアより)

  • 纒向遺跡

    纒向遺跡から見た纒向古墳群

    遺跡内に所在する箸墓古墳は、一般的に、定型化した前方後円墳の始まりとして理解されている。一方で寺沢薫は、纒向石塚古墳など箸墓古墳に先立つ纒向古墳群に属する墳丘墓を「纒向型前方後円墳」の概念を用いて捉え、これらを出現期古墳に位置づけている。いずれにせよ、近年においては纒向遺跡一帯は前方後円墳発祥の地としてみなされることが多い。纒向遺跡 フレッシュアイペディアより)

  • 纒向遺跡

    纒向遺跡から見た朝鮮半島

    瓦質土器(1996年(平成8年)に土器片の発見。胎土成分組成の分析により、2001年(平成13年)に国内で類例のないものであることが確認され、朝鮮半島の技術で作られたものと判明した)纒向遺跡 フレッシュアイペディアより)

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    纒向遺跡から見た水路

    矢板で護岸した幅5m、深さ1mの直線的な巨大水路が2本あり、「北溝」「南溝」と称される。纒向遺跡 フレッシュアイペディアより)

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    纒向遺跡から見た楯築遺跡

    纒向遺跡は1937年(昭和12年)に土井実によって「太田遺跡」として『大和志』に紹介されたのが最初である。現在の名称で呼ばれるまでは「太田遺跡」・「勝山遺跡」として学界に知られており、小規模な遺跡群の1つとして研究者には認識され、特に注目を集めていなかった。しかし、炭鉱離職者の雇用促進のための県営住宅建設および小学校建設計画が持ち上がり、それを契機に1971年(昭和46年)より橿原考古学研究所によって事前調査が行われることとなった。その結果、幅5m、深さ1m、総延長200m以上の運河状の構造物が発見され、地元の万葉研究者である吉岡義信らが『万葉集』に登場する「巻向川」の跡ではないかと述べたことから、注目を集めることとなった。川跡からは、吉備の楯築遺跡や都月坂遺跡で出土している特殊器台が出土した。その後も、橿原考古学研究所の石野博信と関川尚功を中心に発掘調査がなされ、様々な遺構や出土品が広範囲にわたり確認された。1977年(昭和52年)の第15次調査以降は、調査主体が橿原考古学研究所から桜井市教育委員会へと移り、現在も調査を継続しており、調査回数は100次を超えている。2008年(平成20年)12月段階でも、遺跡は全体の5%が発掘調査されたにすぎない。纒向遺跡 フレッシュアイペディアより)

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    纒向遺跡から見た磯城郡

    遺跡の名称は、旧磯城郡纒向村に由来し、「纒向」の村名は垂仁天皇の「纒向珠城(たまき)宮」、景行天皇の「纒向日代(ひしろ)宮」より名づけられたものである。纒向遺跡 フレッシュアイペディアより)

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    纒向遺跡から見た伊勢国

    日本全国で作られたと見なされる遺物が出土しているが、中でも大和国に隣接し、古代から交流が盛んで関係が深かった伊勢国で造られた物と、伊勢湾を挟んで東側に位置する尾張国で造られた物が多い。また、搬入品のほか、ヤマトで製作されたものの各地の特色を持つとされる土器が多く、祭祀関連遺構ではその比率が高くなる(多い地点では出土土器全体の3割を占める)。また、これら外来系の土器・遺物は九州から関東にかけて、および日本海側を含み、それ以前の外来系遺物に比べてきわめて広範囲であり、弥生時代以前にはみられない規模の広汎な地域交流があったことを物語っている。纒向遺跡 フレッシュアイペディアより)

  • 纒向遺跡

    纒向遺跡から見た集落

    遺跡からは弥生時代の集落は発見されておらず、環濠も検出されていない。銅鐸の破片や土坑が2基発見されているのみである。この遺跡より南に少し離れた所からは弥生時代中期・後期の多量の土器片が出土しており、方形周濠墓や竪穴住居なども検出している。また、南西側からも多くの弥生時代の遺物が出土している。ただし、纒向遺跡の北溝北部下層および灰粘土層からは畿内第V様式末の弥生土器が見つかっており、「纒向編年」では「纒向1類」とされている。なお、発掘調査を担当した石野博信は、「纒向1類」の暦年代としては西暦180年から210年をあてている。纒向遺跡 フレッシュアイペディアより)

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    纒向遺跡から見た縄文時代

    遺跡内出土遺物で最も古いものは、縄文時代後・晩期のものである。粗製土器片やサヌカイト片に混じって砂岩製の石棒破片、あるいは土偶や深鉢などが遺跡内より出土しており、この地に縄文時代の集落が営まれていたと考えられている。纒向遺跡 フレッシュアイペディアより)

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