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  • 纒向遺跡

    纒向遺跡から見た大和国

    日本全国で作られたと見なされる遺物が出土しているが、中でも大和国に隣接し、古代から交流が盛んで関係が深かった伊勢国で造られた物と、伊勢湾を挟んで東側に位置する尾張国で造られた物が多い。また、搬入品のほか、ヤマトで製作されたものの各地の特色を持つとされる土器が多く、祭祀関連遺構ではその比率が高くなる(多い地点では出土土器全体の3割を占める)。また、これら外来系の土器・遺物は九州から関東にかけて、および日本海側を含み、それ以前の外来系遺物に比べてきわめて広範囲であり、弥生時代以前にはみられない規模の広汎な地域交流があったことを物語っている。纒向遺跡 フレッシュアイペディアより)

  • 纒向遺跡

    纒向遺跡から見た土坑

    遺跡からは弥生時代の集落は発見されておらず、環濠も検出されていない。銅鐸の破片や土坑が2基発見されているのみである。この遺跡より南に少し離れた所からは弥生時代中期・後期の多量の土器片が出土しており、方形周濠墓や竪穴住居なども検出している。また、南西側からも多くの弥生時代の遺物が出土している。ただし、纒向遺跡の北溝北部下層および灰粘土層からは畿内第V様式末の弥生土器が見つかっており、「纒向編年」では「纒向1類」とされている。なお、発掘調査を担当した石野博信は、「纒向1類」の暦年代としては西暦180年から210年をあてている。纒向遺跡 フレッシュアイペディアより)

  • 纒向遺跡

    纒向遺跡から見た扇状地

    地勢は、東が高く西が低い。三輪山・巻向山・穴師山などの流れが巻向川に合流し、その扇状地上に遺跡が形成されている。纒向遺跡 フレッシュアイペディアより)

  • 纒向遺跡

    纒向遺跡から見たコイ

    纒向遺跡発掘に携わった奈良県桜井市教育委員会は、遺跡の3世紀に掘られた穴「土坑」から桃のタネ約2,000個が見つかったと2010年(平成22年)に発表した。桃の実は古代祭祀においては供物として使われており、1ヶ所で出土したタネ数としては国内最多である。また2011年(平成23年)には、この遺跡からマダイ、アジ、サバ、コイなど6種類以上の魚の骨やウロコを確認した。動物もイノシシやシカ、カモの骨など千数百点が見つかったと発表した。これらは食料ではなく、供物であったと考えられている。纒向遺跡 フレッシュアイペディアより)

  • 纒向遺跡

    纒向遺跡から見た日本書紀

    また、平安時代初期の「大市」墨書土器があり、この地が『倭名類聚抄』記載の「於保以智(おほいち)」郷に相当するとみられ、『日本書紀』記載の海柘榴市も纒向遺跡南に比定されていることから、纒向が後世に至るまで市的機能を有していたことが知られており、さらに『記紀』では崇神天皇・垂仁天皇・景行天皇の磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)、纏向珠城宮(まきむくのたまきのみや)、纏向日代宮(まきむくのひしろのみや)が存在したとの伝承が記載されている。纒向遺跡 フレッシュアイペディアより)

  • 纒向遺跡

    纒向遺跡から見たアジ

    纒向遺跡発掘に携わった奈良県桜井市教育委員会は、遺跡の3世紀に掘られた穴「土坑」から桃のタネ約2,000個が見つかったと2010年(平成22年)に発表した。桃の実は古代祭祀においては供物として使われており、1ヶ所で出土したタネ数としては国内最多である。また2011年(平成23年)には、この遺跡からマダイ、アジ、サバ、コイなど6種類以上の魚の骨やウロコを確認した。動物もイノシシやシカ、カモの骨など千数百点が見つかったと発表した。これらは食料ではなく、供物であったと考えられている。纒向遺跡 フレッシュアイペディアより)

  • 纒向遺跡

    纒向遺跡から見た纏向古墳群

    遺跡内に点在する古墳(纏向古墳群纒向遺跡 フレッシュアイペディアより)

  • 纒向遺跡

    纒向遺跡から見た銅鐸

    遺跡からは弥生時代の集落は発見されておらず、環濠も検出されていない。銅鐸の破片や土坑が2基発見されているのみである。この遺跡より南に少し離れた所からは弥生時代中期・後期の多量の土器片が出土しており、方形周濠墓や竪穴住居なども検出している。また、南西側からも多くの弥生時代の遺物が出土している。ただし、纒向遺跡の北溝北部下層および灰粘土層からは畿内第V様式末の弥生土器が見つかっており、「纒向編年」では「纒向1類」とされている。なお、発掘調査を担当した石野博信は、「纒向1類」の暦年代としては西暦180年から210年をあてている。纒向遺跡 フレッシュアイペディアより)

  • 纒向遺跡

    纒向遺跡から見た埴輪

    纒向遺跡は弥生時代から古墳時代への転換期の様相を示す重要な遺跡であり、また、現在では邪馬台国畿内説を立証する遺跡ではないかとして注目を浴びている。3世紀前半の遺構は必ずしも多くなく、遺跡の最盛期は3世紀終わり頃から4世紀初めにかけてである。農業用の大型水路や無数の土坑の中には、三輪山祭祀に関する遺物のセットが多数投げ捨てられており、石塚古墳の周濠からは吉備系の祭祀遺物である弧文円板(こもんえんばん)が出土している。ピークの過ぎた4世紀末には埴輪が出土する。纒向遺跡 フレッシュアイペディアより)

  • 纒向遺跡

    纒向遺跡から見た伊勢湾

    日本全国で作られたと見なされる遺物が出土しているが、中でも大和国に隣接し、古代から交流が盛んで関係が深かった伊勢国で造られた物と、伊勢湾を挟んで東側に位置する尾張国で造られた物が多い。また、搬入品のほか、ヤマトで製作されたものの各地の特色を持つとされる土器が多く、祭祀関連遺構ではその比率が高くなる(多い地点では出土土器全体の3割を占める)。また、これら外来系の土器・遺物は九州から関東にかけて、および日本海側を含み、それ以前の外来系遺物に比べてきわめて広範囲であり、弥生時代以前にはみられない規模の広汎な地域交流があったことを物語っている。纒向遺跡 フレッシュアイペディアより)

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