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横歩取り3三桂から見た羽生善治
後手の飛角桂の活用がやや難しいため、当初は3三角戦法と違い採用率が低く、奇襲戦法の一つとして認知されていたに過ぎなかった。深浦康市によると、3三桂戦法がプロ棋士の間で脚光を浴びるきっかけとなったのは、平成2年の棋聖戦で屋敷伸之が3三桂戦法を採用して森下卓を破った一局である。このとき先手の森下が採用した3八玉形が廃れ、先手は玉を中住まいに構えるようになったが、それへの対策として考案されたのが5筋の歩を伸ばして先手の玉頭に狙いをつける手法である。この指し方の代表局としては平成4年6月の天王戦の羽生善治対脇謙二戦がある。以上の2局は先手が持久戦を志向した場合の指し方としてほぼ定跡手順となっているが、先手が急戦模様に動く手法も現れた。(横歩取り3三桂 フレッシュアイペディアより)
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勝又清和から見た羽生善治
転機となったのは、第52期(1994年度)名人戦の七番勝負を戦う米長邦雄名人と羽生善治四冠の闘志あふれる姿を見たことだった。勝又は同年度4月 - 9月の第15回三段リーグでは昇級を逃すも、リーグ表順位で勝又より下の近藤正和と同星の12勝6敗の成績を収める。これが結果的に大きかった(次回のリーグ表で、勝又は3位、近藤は4位)。勝又は次の第16回三段リーグ(1994年度10月 - 3月)の最終日を、2局のうち1局勝てば自力昇段(「マジック1」に相当)という状況で迎えた。近藤は2勝0敗で追い上げたが、勝又は1敗の後に1勝して近藤と同じ13勝5敗。よって、勝又が四段昇段を決めた(1995年4月1日付けで昇段・プロ入り)。このときの同時昇段者(トップ通過)は、勝又よりさらに年上の北島忠雄(29歳)であった。(勝又清和 フレッシュアイペディアより)
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瀬川晶司から見た羽生善治
退会時に所持していた将棋の書籍や自身の棋譜を処分し、二度と将棋を指さないつもりだったが、将棋を伸び伸びと指す楽しさに気づきアマチュアに復帰。大学3年の1999年、第53期全日本アマチュア名人戦で優勝しアマ名人となり、これによりプロの公式棋戦である第26期棋王戦への出場資格を得る。予選トーナメント1回戦の相手は、くしくも瀬川の退会が決まった第18回三段リーグで、年齢制限ぎりぎりで四段昇段を果たした中座真であった。同年の全国アマチュア王将位大会では準アマ王将となり、これにより出場した第9期銀河戦本戦では、プロを相手に7連勝する快進撃で、ブロック最多連勝でアマチュアながら決勝トーナメントに進出した。なお、2000年1月1日にはNHKの?新春お好み将棋対局にアマ名人として出演、羽生善治NHK杯との対局(羽生は角落ち)を行い、119手で敗れている。(瀬川晶司 フレッシュアイペディアより)
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中学2年生で迎えた第59回奨励会三段リーグ戦(2016年度前期)で、2016年9月3日に10月1日付・14歳2か月での四段昇段=プロ入りを決め、最年少棋士記録(加藤一二三が1954年8月1日に14歳7か月で四段昇段)を62年ぶりに更新した。中学生でプロ入りを果たしたのは、加藤一二三・谷川浩司・羽生善治・渡辺明に続いて5人目、また三段リーグを1期抜けしたのは、小倉久史・屋敷伸之・川上猛・松尾歩・三枚堂達也に続いて6人目であった。(Https://ja.wikipedia.org/wiki/利用者:Pooh456/sandbox/藤井聡太 フレッシュアイペディアより)