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佐渡島から見た能舞台
また、京都から流罪された文人・政治家などが都の文化を伝えた影響からかさまざまな伝統芸能が受け継がれている。有名なのは能である。江戸時代には200を超える能舞台があり、現在も32余りの能舞台が残っている。人口当たりの能舞台数は、江戸時代も現在も全国一となっている。これらの能舞台は、今も、春から秋にかけ薪能などイベントや祭りで利用されており、各地区の希望する子供達が大人から指導を受けて演じている。これは能の大成者である世阿弥が配流された影響であるといわれている。古浄瑠璃、文弥人形、のろま人形、説教人形、獅子舞なども代々受け継がれ、現存している。(佐渡島 フレッシュアイペディアより)
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元禄文化から見た能楽
貞享2年(1685年)には大坂の竹本義太夫と京の加賀掾が道頓堀で競演したが、井原西鶴が加賀掾のために『暦』『凱陣八嶋』の2作品を書いたのに対し、義太夫は『賢女の手習?新暦』と近松の新作『出世景清』で対抗した。景清は『平家物語』や能楽、幸若舞でも取り上げられた題材であったが、近松はそこから悲劇的な葛藤をとりだして、人間性豊かなドラマに仕立てたのである。こうして近松の脚本は竹本義太夫と出会い、義太夫自身によって語られて民衆の人気を博した。近松・義太夫が現れてからの浄瑠璃はそれ以前とはほとんど内容を一新させてしまうほどでだったので、それ以前を古浄瑠璃、それ以降を新浄瑠璃(当流)と呼んで区別している。近松はまた、上方歌舞伎の名優坂田藤十郎のために『傾城阿波の鳴門』などの名編を作劇しており、真に浄瑠璃脚本に専心したのは元禄16年(1703年)の『曾根崎心中』が最初であった。(元禄文化 フレッシュアイペディアより)