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浅井城 (越中国礪波郡)から見た能登国
平野部に突き出した丘陵の先端部(57m)に築かれていた。比高差は40m。曲輪、櫓跡、堀切が残る。南西約600mにある越中国赤丸城より規模はやや小さい。付近を旧北陸道である『山根道』、また宝達山を通り能登国志雄(現石川県宝達志水町)へと抜ける道が通っていた。至近には延喜式内論社である浅井神社が在る。浅井神社には江戸時代前期まで「川人明神」という神社があったと伝えられている事から古代北陸道における「川人(川合)駅」がこの周辺に在ったものと思われ、浅井城周辺が古代から交通の要衝であった事を示している。(浅井城 (越中国礪波郡) フレッシュアイペディアより)
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藤原通重から見た能登国
初名を長基と名乗る。康治元年(1142年)に能登守に任ぜられ、翌年に従四位下に叙せられる。久安4年当時は従四位上丹波守であり、同年10月に行われた殿上饗に弟の能登守基家とともに奉仕している。兄の早世により通基の嫡男と位置付けられ、また母が仕えている待賢門院・上西門院の庇護の下に若年にして四位に叙せられているが、通重もまた久安5年に早世した。一条の家名の由来となったのは彼の母である上西門院一条が有していた一条室町の邸宅であり、通重の死後彼女に引き取られた遺児の能保に継承された。後年、能保は朝廷と草創期の鎌倉幕府との間に立って重きをなし、従二位権中納言まで立身している。(藤原通重 フレッシュアイペディアより)
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