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長谷川等伯から見た能登国
能登国・七尾の生まれ。20代の頃から七尾で日蓮宗関係の仏画や肖像画を描いていたが、元亀2年(1571年)頃に上洛して狩野派など諸派の画風を学び、牧谿、雪舟らの水墨画に影響を受けた。千利休や豊臣秀吉らに重用され、当時画壇のトップにいた狩野派を脅かすほどの絵師となり、等伯を始祖とする長谷川派も狩野派と対抗する存在となった。金碧障壁画と水墨画の両方で独自の画風を確立し、代表作『松林図屏風』(東京国立博物館蔵、国宝)は日本水墨画の最高傑作として名高い。晩年には自らを「雪舟五代」と称している。慶長15年(1610年)に江戸で没した。代表作は他に『祥雲寺(現智積院)障壁画』(国宝)、『竹林猿猴図屏風』(相国寺蔵)など。画論に日通が筆録した『等伯画説』がある。長谷川久蔵ら4人の息子も長谷川派の絵師となった。(長谷川等伯 フレッシュアイペディアより)
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春枝王から見た能登国
天長年間に嵯峨上皇に仕える。承和年間初頭に越後介に任ぜられるが、非常に治国の功績があり、承和10年(843年)ちょうど諒闇(嵯峨上皇崩御に伴う服喪期間)であったが、治国の功労により特別の叙位を受け従五位下に叙爵され、能登守に任ぜられる。当時能登国は長年に亘って荒廃しており、煩わしいほど乱れていたが、春枝が赴任して3年ほどで復興して世が静まり、民衆は安心を得ることができたという。また、朝廷へ申請して同国の定額寺であった大興寺を能登国分寺とした。同寺での安居の講の際には春枝王自らが参加し、梵唄の声が昼夜休むことなく続いたという。この間の承和10年(843年)6月に天武天皇後裔の六世王に対して臣籍降下が行われた際、春枝王の子女3名に対しては高階真人の氏姓が与えられている。(春枝王 フレッシュアイペディアより)