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蓮悟から見た能登国
ところが、本願寺の法主が証如の代に入ると証如とその後見である蓮淳(蓮如の6男で証如の外祖父)は法主による一門統制を強める政策を採り、その遂行のために蓮淳の婿で加賀の末寺の1つ超勝寺(元は越前にあり前述の本泉寺と共に追放されていた)の住持であった実顕が代官に任じられて「両御山」体制を否認する命令を加賀各地に出す。これに対して蓮悟や蓮慶(蓮綱の嫡子)、顕誓(蓮誓の嫡子)は蓮如・実如が定めた一門衆の指導への服従を定めた規則に反するとして超勝寺の討伐のための一揆を起こした。ところが、この報を受けた蓮淳は逆に法主の代理である実顕を討つ事は本願寺法主に対する反逆であるとして畿内・東海の門徒に超勝寺救援の命令を発したのである。これを知った加賀門徒は動揺して分裂、享禄4年(1531年)蓮悟は能登に逃れた(大小一揆)。(蓮悟 フレッシュアイペディアより)
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畠山政国 (総州家)から見た能登国
畠山 政国(はたけやま まさくに、生年不詳 - 文明2年10月5日(1470年11月6日))は、室町時代の武将。能登畠山氏の出身で能登守護畠山義有の子(畠山義忠の孫で畠山義統の弟にあたる)。畠山総州家・畠山義就の猶子。通称は次郎。室町幕府第8代将軍足利義政より偏諱を受けて政国(旧字体:政國)と名乗る。(畠山政国 (総州家) フレッシュアイペディアより)
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斯波義将から見た能登国
やがて正平22年(1367年)に父が失意の中没すると、まもなく義将は幕府より赦免され、再び越中守護に補任された。越中守護に再任した義将は、長年にわたって同国に勢力を張る桃井直常・直信(前越中守護)兄弟の討伐を推し進めていく事になる。桃井兄弟は建武年間から活躍する武将であり、特に兄の直常は足利直義・直冬の強力な与党として、幾度となく幕府を苦しめた猛将と知られていた。これに対して義将は越中・能登等の北陸勢を率いて桃井軍に挑み、正平24年(1369年)10月には直常の篭る松倉城を攻略した。落ち延びた直常ら桃井一族は、翌建徳元年(1370年)に婦負郡長沢において決戦を挑んだが、この合戦で義将は直常の子直和を敗死させるなど大勝利を手にした。敗れた桃井一族は、南朝勢力や飛騨の姉小路氏の支援を受けてなおも抵抗を試みるものの、建徳2年(1371年)の五位荘の合戦で吉見氏などに敗れた以降は斯波氏に駆逐され、ここに越中は幕府軍に完全に制圧された。(斯波義将 フレッシュアイペディアより)
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川勝隆尚から見た能登国
延宝8年(1680年)、徳川徳松殿(将軍綱吉の長男)が西城に移るときに従い、天和3年(1683年)閏5月21日に御傅となったが、徳松殿逝去の後退職を許され、小普請となった。貞享元年(1684年)10月10日、小姓組に列し、貞享2年(1685年)10月3日に新番頭に進み、奥の勤も兼ねた。同年12月23日、300俵を加えられ、同年12月28日に布衣を着る事を許された。元禄9年(1696年)4月11日、先手弓頭に転じ、元禄10年(1697年)7月26日に蔵米を領地に改め、上野国多胡郡、緑野郡、新田郡、佐位郡、群馬郡内において800石を給わった。元禄14年(1701年)正月11日、持弓頭にうつり、宝永元年(1704年)8月11日に小姓組番頭に進んだ。同年12月11日、従五位下、能登守に叙任し、同年12月12日に上野国群馬郡、多胡郡内において1,000石の加増があった。宝永5年(1708年)12月9日、1,000石の加増があり、先に給わった800石の土地を改め、相模国愛甲郡、大住郡、高座郡内において1,800石給わり、全てで上野・相模内2,800石を知行した。正徳5年(1715年)9月11日、職を辞して、同年12月11日に隠居し、隠居料として蔵米300俵を給わった。家督は養子の隆明に譲った。享保15年(1730年)5月17日、93歳で没した。(川勝隆尚 フレッシュアイペディアより)