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原田雅彦から見た船木和喜
1994年リレハンメルオリンピック団体での大失敗ジャンプ以降、マスコミ・一般人からのバッシングもあり、また船木和喜の台頭により彼のフォームを意識するあまりスランプに陥ったが、1995-96シーズンに本来のフォームに戻したことで調子を取り戻し、度々ワールドカップで優勝するようになる。長野オリンピックの前年である1996-97シーズンは一時不振に陥るも、トロンハイムの世界選手権の個人ラージヒルで優勝。五輪、世界選手権を通じてラージヒルの優勝は日本人初の快挙(また、1993年ノーマルヒル優勝と併せて、ノーマルヒル・ラージヒルの両種目で優勝した初の日本人選手ということにもなる)。(原田雅彦 フレッシュアイペディアより)
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日の丸飛行隊から見た船木和喜
札幌オリンピック後は1970年代後半から80年代前半にかけて八木弘和と秋元正博が活躍。その後は低迷が続いたが、カルガリーオリンピック(1988年)直後からナショナルチーム入りした原田雅彦、岡部孝信、東輝、葛西紀明らの登場で成績が再び上昇し、1992-93シーズンに葛西がW杯で日本人初の総合3位入賞を達成、1998年の長野オリンピックではラージヒル団体で金メダル(原田、岡部、船木和喜、斉藤浩哉)、ラージヒル個人で船木が金メダル、原田が銅メダル、ノーマルヒル個人で船木が銀メダルを獲得する大活躍を演じた。ワールドカップでも1997-98シーズンに船木が日本人最高の総合2位に入る。(日の丸飛行隊 フレッシュアイペディアより)
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1998年長野オリンピックから見た船木和喜
日本勢が金2個(ラージヒル個人・船木和喜、ラージヒル団体・日本代表)、銀1個(ノーマルヒル個人・船木)、銅1個(ラージヒル個人・原田雅彦)を獲得した。(1998年長野オリンピック フレッシュアイペディアより)
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斉藤浩哉から見た船木和喜
現役時代は「教科書」とも評された基本に忠実な、安定したジャンプスタイルで、1997年-1998年シーズンには3度あった日本のW杯表彰台独占において唯一3度全てで表彰台に上がり(1月1日・ガルミッシュ=パルテンキルヒェン:1位船木、2位原田、3位斉藤。1月11日・ラムソー:1位原田、2位船木、3位斉藤。3月1日・ヴィケルスン:1位岡部、2位斉藤、3位葛西)、長野五輪では団体戦の2番手として1回目130m、2回目124mと非常に堅実なジャンプで実力を見せつけ、日本の金メダル獲得に大きく貢献するなど大活躍だった。しかし長野五輪後は度重なるケガに泣かされた。1998年7月に右ひざの前十字靭帯、1999年6月には左ひざの(しつがいけん)3カ所を断裂したがそのたびに復活した。(斉藤浩哉 フレッシュアイペディアより)
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プリモジュ・ペテルカから見た船木和喜
1997/1998シーズンは当初やや不調であったが、シーズン4勝(スロベニア人初のホルメンコーレン大会優勝を含む)をあげ、最終戦地元のプラニツァで日本の船木和喜、オーストリアのアンドレアス・ビドヘルツルらの追撃を振り切って2シーズン連続の総合優勝を果たした。 このシーズンの長野オリンピックではノーマルヒル6位、ラージヒル5位に入賞した。(プリモジュ・ペテルカ フレッシュアイペディアより)