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  • 武藤 敬司

    武藤敬司から見た蝶野正洋蝶野正洋

    1984年、新日本プロレスの選手が通院していた接骨院に勤務していた東北柔道専門学校の先輩のツテで新日本プロレスを紹介され21歳で入門。後に闘魂三銃士となる蝶野正洋、橋本真也は同日入門であり、野上彰、15歳の船木誠勝よりも少し後輩にあたる。船木誠勝、蝶野正洋らによると、入門3日ほどで山本小鉄に辞めたいと言ったことがある。スクワットの練習中、山本小鉄が「嫌ならやめていいんだぞ」と言ったところ武藤は練習を投げ出し、「辞めます」と言い放った。小鉄はたじろぎ、他の練習生であれば引き留めるはずもないところだが「お前、辞めるなんて言うな」と言ったという。さらに小鉄は「あと1週間だけ辛抱してみろ、それでもいやなら辞めても構わない」と言い、それを聞いた武藤は「俺って期待されているんだ」と確信し、そのまま練習を続ける決意を固めた。共に練習していた蝶野は、「武藤が『あの逸材だから』相手がどう反応するか判っていて駆け引きをしていたようだ」と語っている。この時の様子などは闘魂三銃士の自伝「烈闘生」に詳しく書いている。同期の蝶野、橋本らと共に厳しいトレーニングの日々が始まるはずだったが、前田、藤原、高田らが第一次UWFへ移籍し、半年後には長州軍13人が全日本へ移籍してしまったため、怖い先輩がいなくなってしまいやりたい放題だったという。同年10月の武藤のデビュー戦の相手は同じくデビュー戦の蝶野であった。武藤敬司 フレッシュアイペディアより)

  • ルー・テーズ

    ルー・テーズから見た蝶野正洋蝶野正洋

    1988年 - セッド・ジニアスの弟子入りに伴い、バージニア州ノーフォークでレスリングスクールを開校。日本人でも北尾光司(元横綱双羽黒)、蝶野正洋、田村潔司が入門するも、セッド・ジニアスからコーチ料を月額7000ドル、総額約1千万円も大金を取りながら、自分ではほとんど教えなかったという新人育成に関する問題が発生した。ルー・テーズ フレッシュアイペディアより)

  • レジェンド (新日本プロレス)

    レジェンド (新日本プロレス)から見た蝶野正洋蝶野正洋

    2007年8月11日のG1 CLIMAXの公式戦式戦終了後、蝶野正洋がマイクを持ち「この指に止まるヤツが5人いる」と言い、長州力、獣神サンダー・ライガー、スーパー・ストロング・マシン、越中詩郎をリング上に呼び込んだ(5人とマイクしたが、自分も含めていたのか集まったのは4人)。そして「新日本の歴史はこの5人に作られたんだ。このリング、新日本の大黒柱は俺ら5人が作る。ここは俺ら5人の独壇場だ!」とアピールし、新軍団結成の運びとなった。ユニットの名称の発表は無かったがメンバー全員が蝶野の言葉通り新日本で一時代を築いたレスラーであるためマスコミは「レジェンド」と呼び、それがそのままユニット名となった。レジェンド (新日本プロレス) フレッシュアイペディアより)

  • TEAM 2000

    TEAM 2000から見た蝶野正洋蝶野正洋

    nWoジャパン総帥だった蝶野正洋は1998年のIWGPヘビー級王座獲得後、首の負傷のため王座を返上し長期欠場に入る。しかしその間にナンバー2の位置にいた武藤敬司がnWoの実権を掌握、居場所を失った蝶野は1999年に、同期生で同じく長期欠場から復帰したAKIRAと共に新ユニットを結成。のちにドン・フライが加入、ユニット名をTEAM 2000としnWoと抗争を繰り広げる。TEAM 2000 フレッシュアイペディアより)

  • 博士と助手〜細かすぎて伝わらないモノマネ選手権〜

    博士と助手〜細かすぎて伝わらないモノマネ選手権〜から見た蝶野正洋蝶野正洋

    試合中にレフェリーにチェックを要求する蝶野正洋博士と助手〜細かすぎて伝わらないモノマネ選手権〜 フレッシュアイペディアより)

  • 小橋建太

    小橋建太から見た蝶野正洋蝶野正洋

    2003年5月2日…新日本プロレス東京ドーム大会にて蝶野正洋を挑戦者に迎えGHCヘビー級選手権試合を行い、防衛。小橋建太 フレッシュアイペディアより)

  • 新日本プロレス

    新日本プロレスから見た蝶野正洋蝶野正洋

    7月、武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也が『闘魂三銃士』結成。新日本プロレス フレッシュアイペディアより)

  • ヒロ斎藤

    ヒロ斎藤から見た蝶野正洋蝶野正洋

    1995年に蝶野正洋、天山広吉と狼群団を結成。その後nWo JAPAN、TEAM 2000、クレイジー・ドックスと、独自のヒール道を邁進している。ヒロ斎藤 フレッシュアイペディアより)

  • ボブ・ブラウン (プロレスラー)

    ボブ・ブラウン (プロレスラー)から見た蝶野正洋蝶野正洋

    WWFの全米侵攻に伴いプロレスリング・ビジネスのテリトリー制が崩壊し、アライアンスとしてのNWAが事実上解体した1980年代後半からは、アメリカを離れ故郷のカナダにて活動。ノバスコシアやニューブランズウィックなど大西洋岸のマリタイム地区を拠点とするアトランティック・グランプリ・レスリングでは、海外武者修行中だったマサ・チョーノこと蝶野正洋をパートナーに、1988年7月にAGPW北米タッグ王座を獲得している。カルガリーのスタンピード・レスリングでは甥のケリー・ブラウン(リック・バレンタイン)とのコンビで活躍し、1989年6月9日にクリス・ベノワ&ビーフ・ウェリントンからインターナショナル・タッグ王座を奪取した。ボブ・ブラウン (プロレスラー) フレッシュアイペディアより)

  • ロイヤル・ハント

    ロイヤル・ハントから見た蝶野正洋蝶野正洋

    アンドレ・アンダーセンを中心として1991年に結成。メロディアスなメタル・サウンドが人気を得、特に日本ではD. C. クーパーが在籍していた1990年代中頃から後半に入場テーマとして楽曲を提供した蝶野正洋率いるnWo JAPANのBGMとしてワールドプロレスリングで楽曲が使用され、プロレスファンを取り込んだ形で人気を博した(現在、D. C. クーパーは復帰)。現在もヨーロッパでは安定した人気があるバンドである。ロイヤル・ハント フレッシュアイペディアより)

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