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笑ってはいけないシリーズから見た蝶野正洋
『地球防衛軍』『大脱獄』『科学博士』では、オープニングの着替えで用意された衣裳がメンバー内で唯一の女装。『アメリカンポリス』では他の4人と同じ衣装におかっぱのカツラだった。『名探偵』では、蝶野正洋にビンタを迫られた(ただし最終的にビンタを受けたのは方正だった)。(笑ってはいけないシリーズ フレッシュアイペディアより)
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ストーン・コールド・スティーブ・オースチンから見た蝶野正洋
その後の活躍が認められ、1991年にダスティ・ローデスにスカウトされてWCWと契約。1993年にはブライアン・ピルマンとのタッグチーム「ハリウッド・ブロンズ」を結成し、3月にリッキー・スティムボート&シェーン・ダグラスからWCW世界タッグ王座を奪取した。1992年には新日本プロレスに初来日し、G1 CLIMAXに参戦。2回戦で武藤敬司に敗れるも、放送席にいたマサ斎藤はオースチンの技術を高く評価し、「彼はプロレスが上手い。絶対にトップに立てますよ」と絶賛していた。同年9月の再来日では蝶野正洋の持つNWA世界ヘビー級王座にも挑戦。なお、この試合で蝶野の首を破壊しているがその方法は怪我の危険性が非常に高い変形のパイルドライバーだったため日本人レスラーや関係者の顰蹙を買った。(ストーン・コールド・スティーブ・オースチン フレッシュアイペディアより)
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パワーボムから見た蝶野正洋
天龍はパワーボムでジャイアント馬場、アントニオ猪木、ジャンボ鶴田から3カウントを奪っている。以降、天龍はパワーボムで2代目タイガーマスク(三沢光晴)、川田利明、小橋建太、田上明、長州力、藤波辰爾、武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也、大仁田厚、高田延彦などのトップレスラーからピンフォールを奪っている。女子レスラーでは佐藤ちのが1979年から使い始めて佐藤の引退後は同期のジャンボ堀が受け継いで1982年から毎試合のように披露していた。新技の研究に熱心だった堀は相手をパワーボムの要領で肩の高さまで持ち上げて自身は後ろに倒れ込み、後方へと反り投げた相手を顔の辺りから叩きつけるジャンボ・スープレックスを開発している。(パワーボム フレッシュアイペディアより)
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ガールズ&パンツァーから見た蝶野正洋
11月15日、過去最大の11万人が町を訪れた。劇場版の公開が開催日の週末ということもあり、来場者特典や蝶野正洋が劇場版の応援大使に任命されたこと、12月に発売されるミニアルバム『タンソン』に蝶野が「超重戦車級王者マウス」の歌手として参加することなどが発表された。(ガールズ&パンツァー フレッシュアイペディアより)
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狼群団から見た蝶野正洋
1994年に武闘派転向したが、会社の試合カード編成上の都合によりスーパー・ストロング・マシンと共闘させられていた蝶野正洋が、年末のSGタッグリーグ戦の優勝戦でマシンと仲違いを起こし決裂、一匹狼となった。その後、同様にレイジング・スタッフが解散したことにより長らく一匹狼としてヒール活動をしていたヒロ斎藤とコンビを組むようになり、さらに翌1995年に海外遠征から帰国し新日本プロレス本隊に反旗を翻した天山広吉が、2月12日昼の平成維震軍興行において、合流するとみられていた越中詩郎ら平成維震軍と決裂し蝶野と合体、その夜の新日本の興行で初めて蝶野・天山・ヒロのトリオで試合を行い、天山が長州力をフォールした。ユニット名は正式に決まったものではなく、メディア側が勝手に命名したものである。当時、本人たちもグループ名称は自ら名乗っていない。そのため、ワールドプロレスリングでは「エゴイスト集団」(辻よしなりが命名)、週刊プロレスでは「狼群団」など各メディアによって呼称が異なっており統一されていなかった。また結成当初は、蝶野とコンビを組んでいたサブゥーもメンバーとして参加していたが、短期間で離脱している。(狼群団 フレッシュアイペディアより)