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鷲頭氏から見た山口市
足利尊氏(北朝)が一時的に南朝と和睦(正平一統)するなど、中央の情勢が目まぐるしく変化する一方、鷲頭氏討伐を画策する弘幸とその子大内弘世は、同年に数万と伝わる軍勢を率いて東大寺領吉敷郡椹野庄(現・山口市)に乱入、南朝に帰順の意志を示して長弘らに対抗した。翌年の正平6年/観応2年(1351年)に長弘が亡くなると、次男の鷲頭弘直が尊氏に帰順して再び周防守護を継ぐが、同年7月に南朝より弘世も周防守護職に任じられた。これによって周防守護職は、北朝が任じた鷲頭弘直と南朝が任じた大内弘世が対立する事態となった。正平7年/観応3年(1352年)2月には弘世が鷲頭庄を攻めており、翌3月には弘幸が亡くなるが大内氏の攻勢は続いている。その後、経緯は不明ながら鷲頭家の家督は弘直の弟(長弘の三男)鷲頭貞弘に移ったと見られるが、ついに正平9年/文和3年(1354年)に鷲頭氏は大内宗家への従属を余儀無くされた。(鷲頭氏 フレッシュアイペディアより)
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長府から見た山口市
仲哀天皇の時代に『穴門豊浦宮 (あなとのとゆらのみや) 』が置かれたという伝説 (日本書紀記載) があり、忌宮神社 (長門国二宮) はその跡とされる。長門国 (穴門国) 設置にともなって国府および国分寺が置かれたが、やがて国府としての機能が低下するにともない、鳥居前町・宿場町として位置付くことになった。奈良時代には鋳銭司が、鎌倉時代には長門探題が設置された。室町時代には長門守護の厚東氏 (厚東義武) が、戦国時代には山口に拠点を置いた守護大名・大内氏 (大内義長) が、それぞれ長府の地で滅亡した。江戸時代に入ってからは、長州藩の支藩・長府藩設置により長府毛利家が陣屋 (櫛崎城) を構え、その周辺に武家屋敷が広がることになった。幕末には、高杉晋作が長州藩内の佐幕打倒を図り功山寺で決起した。(長府 フレッシュアイペディアより)
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吉見信頼から見た山口市
石見の有力国人の一人。応仁の乱が始まると主君の大内政弘(西軍方)に従って上洛し、武功を挙げた。文明2年(1470年)、大内教幸が東軍方の誘いに応じて長門国で挙兵すると、信頼はこれに従った(大内道頓の乱)。しかし、反乱鎮圧に当たる陶弘護に敗北した教幸は、信頼を頼って逃走。再起を図る教幸と信頼の軍勢は、文明3年(1471年)初頭には、長門地福(現・山口市阿東地福)にて大内家臣の末武氏久・延忠・幸氏を討ち取るものの、渡川城・賀年城・江良城などで敗れた。反乱の鎮圧に益田貞兼も加わり、追い詰められた教幸は同年中に自害。信頼は、文明7年(1475年)に元山城(現・山口市阿東徳佐)を攻めるも弘護に撃退された。所領の大半を失った信頼は和睦を求め、文明10年(1478年)に政弘から正式に罪を許される。(吉見信頼 フレッシュアイペディアより)