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吉村貫一郎から見た西本願寺
慶応3年6月15日、吉村と山崎が当時屯所だった西本願寺と交渉することによって、不動堂村への移転が決まった。同月23日付けで幕府より見廻組並に取り立てられた。翌24日には、山崎、土方歳三、尾形らとともに、議奏柳原光愛に国事について面談を願い出ている。これ以前にも断られた事があると考えられる。 大政奉還後の11月頃には薩摩藩家老小松清廉(帯刀)の動向を探っていた。同月18日の伊東甲子太郎謀殺の際には山崎らとともに盛宴を張り、伊東を酔わせる役回りを引き受けたという。12月7日の天満屋事件では紀州藩三浦休太郎護衛の任に付いていたとされているが、永倉新八の『浪士文久報国記事』には記載が見られない。同月11日に六両、13日に十両の着込の代金を会計方から受け取っている、また当時大阪天満宮に旅宿していた新選組が、伏見奉行所に移動する直前の15日、その際の資金として吉村と山崎は百両を受け取っている。(吉村貫一郎 フレッシュアイペディアより)
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