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矢部善蔵から見た西本願寺
掛川藩士として静岡県に生まれ、藩校教養館で漢学、英学校で英書を学び、さらに慶應義塾に在学した後、明治7年(1874年)から慶應義塾京都分校、慶應義塾大阪分校の教師として赴任し、土佐で立志社の片岡健吉らが設立した立志学舎へ招かれ、自由民権運動に携わる。慶應義塾へ戻った後、明治11年(1878年)12月より広島県中学校長兼広島師範学校長となる。広島離任後は、大阪府第一番中学校(現・大阪府立北野高等学校)・埼玉県尋常師範学校(埼玉師範学校)・滋賀県商業学校(現・滋賀県立八幡商業高等学校)・旧制徳島中学校(現・徳島県立城南高等学校)の校長を歴任し、退職後に京都二条に京都高等女学校を開いて経営する。のちに、西本願寺の大谷籌子が設立した文中女学校と合併し、京都女子高等専門学校となった。(矢部善蔵 フレッシュアイペディアより)
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仁阿弥道八から見た西本願寺
初代・高橋道八の次男として生まれ、兄の早世により29歳で家督相続、京・五条坂に開窯。奥田頴川、宝山文蔵らのもとで修行を積み、青木木米らと共に京焼の名手として知られる。仁和寺宮より「仁」、醍醐寺三宝院宮より「阿弥」の号を賜り、出家名「仁阿弥」を称する。45歳の時に紀州藩御庭焼(偕楽園焼)立ち上げに参画、以後、高松藩御庭焼(賛窯)、薩摩藩御庭焼(磯御庭焼)、角倉家御庭焼(一方堂焼)、西本願寺御庭焼(露山焼)などの立ち上げに参画、京焼技法の全国頒布に助力。天保13年(1842年)、伏見に隠居するも、以後も「桃山窯」を開窯、作陶を続けた。(仁阿弥道八 フレッシュアイペディアより)