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林家木久蔵 (2代目)から見た角界
当初、笑点で馬鹿なことを言っている父・初代木久蔵を見て「これなら自分でもなれる」と落語家を目指した(ちなみに、木久扇に入門するに当たり、木久扇夫人(2代目木久蔵の実母)に「『花田勝治・満兄弟』あるいは『花田満、花田勝・光司兄弟の親子』のように、弟子入りすれば、兄弟でも肉親でもないといわれるのではないか」と心配して相談したらしいが、木久扇夫人は、「角界とは違い、国技というわけではないから、落語の師匠・弟子の関係は、そんなに型にはまったものではない」といったことで、それを聞いた2代目木久蔵は、父・木久扇に入門することになったとのこと。木久扇自身は、2代目木久蔵が落語家になりたいと聞いたとき、別の師匠に弟子入りさせて、自分は相談役のような立場でアドバイスすることを考えていたとのこと)。しかし2000年にガンを患いながらも高座に立つ父・初代木久蔵の姿を見て考えを改め、春風亭小朝の下で落語を学びなおした。なお、木久扇自身も、木久蔵時代に発売された2006年の笑点本の中で、ガンになろうが何になろうが「笑点という舞台」に行きたくなるということに触れている。(林家木久蔵 (2代目) フレッシュアイペディアより)
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栃東大裕から見た角界
父には高校横綱になることを角界入りの条件にされ、明大中野高校3年生の時に見事高校横綱に輝き、高校在学中の1994年(平成6年)11月場所に父が師匠の玉ノ井部屋に入門して本名の志賀の四股名で初土俵を踏んだ。序ノ口場所前の稽古で左膝を痛め1995年(平成7年)1月場所は前半を休場したが、8日目の4番相撲から出場して残り4番を全勝してこの場所を4勝0敗3休とした。まわしを取って投げる相撲が得意だったが「今の相撲ではまたけがをする。まわしを取らないでおっつける相撲にしないとだめだ」と反省。師匠からも「廻しにこだわるな」と言われた。投げで振り回す相撲から、脇を固めて押す相撲に変えた。けがを教訓に、母校の先輩、3代目若乃花を見習った。そこから快進撃が始まり、同年3月場所は序ノ口7戦全勝優勝、同年5月場所は序二段7戦全勝優勝、同年7月場所は三段目7戦全勝優勝、幕下に昇進した同年9月場所の1番相撲の白星まで26連勝を飾った。(栃東大裕 フレッシュアイペディアより)
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ああ播磨灘から見た角界
本作の主人公。身長185cm、体重152kg「土俵の上では力こそが全て」という信念を持ち、「観客本位の吊り屋根」「放送のための仕切り時間制限」などの「創られた伝統」を批判、土俵の内では自分に負けた相手に対して内容に関係なく暴言を放ったり、制裁に近い駄目押しを加えるなど、角界の禁をことごとく破る、まさに掟破りの土俵の鬼神。第1話で早くも仮面をかぶって土俵入りし、「どんな負け方でも一敗でもしたら、その日限りで引退する」と豪語、そしてその言葉どおりに連勝を続ける。初場所編の千秋楽にて、「大相撲を解散する」と称し、相撲協会と決別する。後に「播磨灘道場」を旗揚げし、相撲協会と対決する意味で、7月場所と同じ時期に「播磨十番勝負」という自主興行を起こした。驚異の四股を踏む強靭な足腰と怪力を生み出す上体を併せ持ち、得意技は呼び戻し・吊り落とし・櫓投げと、いずれも現実では滅多に見られない大技ばかりである。呼び戻しに関しては秋場所の大江川戦で決まり手として宣告された(突き倒しではないかという声も聞かれた変則の型)ことを境に徹底して探求を続けた結果自身の十八番とし、その稽古の過程で素早く相手の体重移動を感知する相撲勘が磨かれた。土俵入りの型は不知火型。初土俵時の四股名は、山形山(やまがたやま)。(ああ播磨灘 フレッシュアイペディアより)
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日本大学第一中学校・高等学校から見た相撲界
両国という場所柄もあって、かつては角界関係者の子弟も多く在学していたという。なお、現在地へ移転する以前は陸軍本所被服廠跡地の一部であり、1923年(大正12年)の関東大震災時、火災旋風で3万8千人が死亡している。(日本大学第一中学校・高等学校 フレッシュアイペディアより)