-
2003年の日本プロ野球から見た豊田清
7月28日 - 西武の豊田清が6月17日の対日本ハム戦からこの日のロッテ戦まで球団記録の11試合連続セーブ(2003年の日本プロ野球 フレッシュアイペディアより)
-
江藤智 (野球)から見た豊田清
には、打率も2割を切り、スタメン出場は8試合で完全に代打要員となった。通算350本塁打にあと1本に迫っていたが、7月30日の対中日12回戦で本塁打性の当たりを放ったものの、天井に当たり左翼フライとなり、通算350号本塁打は幻となったため、結局本塁打を1本も打てなかった。同年オフの契約更改では野球協約の限度である40%を超える減俸となった。その直後、FAで巨人へ移ってきた豊田清の人的補償として西武ライオンズへの移籍が決定。「FA移籍」と「別の選手のFA移籍に伴う人的補償選手として移籍」の両方を経験したプロ野球史上初の選手となった。またジャイアンツ在籍中に4番での出場は無く、前チームで4番での出場経験がある選手のFA移籍で4番に座らず退団した選手は2017年時点では江藤一人だけとなってる。(江藤智 (野球) フレッシュアイペディアより)
-
2005年の日本シリーズから見た豊田清
実況:植草朋樹 解説:駒田徳広、水上善雄、江夏豊(テレビ大阪) ゲスト解説:豊田清(西武、日本シリーズ終了後に巨人へFA移籍)(2005年の日本シリーズ フレッシュアイペディアより)
-
スコット・マシソンから見た豊田清
は守護神候補として期待されたが、春季キャンプで加治前竜一の頭部に死球を当てるなど制球難を露呈した。開幕前後に二軍で調整中に豊田清二軍投手コーチから、投げ急ぐ癖とフォークボールの握りを修正されたことで復調すると、4月15日に中継ぎの人材補充のため1軍昇格した。昇格後はリリーフで11試合連続無失点を記録。5月3日には来日初勝利を挙げ、「きょうは球団の方が妻にボックス席を用意してくれたので、感謝している。この1勝は妻にささげたい」と語った。同月9日には初セーブも挙げるなど、セットアッパーとして好投を続け、6月29日の中日ドラゴンズ戦から西村健太朗に代わって抑えを任された。この年にスコット鉄太朗を結成し、ニッカンスポーツに大々的にとりあげられる。。7月5日にはプロ野球史上4人目となる球速160km/hを記録。オールスターまでに10セーブを挙げたが、7月27日に右ひじの違和感で登録を抹消し、専門医の治療を受けるため一時帰国。10月5日の横浜戦で戦線復帰した。この年は40試合に登板し、2勝10セーブ8ホールド・防御率1.71と故障離脱がありながらも安定した成績を残した。マシソンが離脱している間にチームは3年ぶりにリーグ優勝し、CSでは5イニングを投げ失点0被安打1と活躍しCS突破に貢献。日本シリーズ第2戦では9回表に2アウト1塁3塁というピンチの場面で登板、一球で二岡智宏を打ち取り、日本シリーズでは初となる「一球でセーブ投手」を達成。日本一のかかった第6戦でも1点差の8回表に登板して無失点に抑え、チームの日本一に貢献した。(スコット・マシソン フレッシュアイペディアより)