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西村健太朗から見た豊田清
シーズンより背番号が30になる。中継ぎとして一軍に定着し、8月にはリーグタイ記録の月間17試合登板を達成。シーズン後半には上原浩治、豊田清と共に勝ちパターンの継投にも組み込まれ、チーム最多の57試合に登板。ロングリリーフや緊急先発もこなし、原監督から「うちの鉄人」と賞賛された。一方、対左打者の被打率が.318、ビジターでは31試合で26失点と課題も残った。シーズン終了後のインタビューでは、先発至上主義が根強く残る巨人には珍しくクローザー願望を語り、「上原さんのように歓声のなか登板したい、ファンに信頼される投手になりたい」と告白した。(西村健太朗 フレッシュアイペディアより)
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藤川球児から見た豊田清
はWBC日本代表に選ばれた。背番号は、同じ「22」を着ける球界の先輩里崎智也に配慮して24を選んだ。対アメリカ戦ではアレックス・ロドリゲスのバットを直球で折った。シーズンに入ると前年同様に中継ぎでスタートしたが、6月に抑えの久保田智之が怪我で離脱したことに伴い、抑えに定着。7月4日の対横浜ベイスターズ戦で35試合連続無失点となり、豊田清が持っていた日本記録を更新。7月11日には小山正明が持つ47イニング連続無失点の球団記録を更新したが、翌7月12日の対広島東洋カープ戦で失点し、連続無失点試合数は38, 連続イニング無失点記録は47回2/3で途切れた。7月21日のオールスターゲーム第1戦では登板前に「野球漫画のような世界を創りたい」と話し、先頭打者のアレックス・カブレラへの投球前に、全球ストレートを予告し、一回もバットに当てさせず空振り三振に取り、続く小笠原道大に対しても全て直球を投じて空振り三振に打ち取った。7月23日の第2戦では、同年からオリックス・バファローズに移籍した清原と再び対決。全て直球で空振り三振に取り、清原は「参った、火の玉や」とコメントした。なお同年は中日ドラゴンズと優勝を争う状況だった阪神だが、7月30日の対ヤクルト戦で藤川に初めて延長3イニングを投じさせるほど決定打を欠いて引き分ける戦いぶりに象徴される様に、オールスター終了後の7月下旬以降なかなか勝てず、堅実に勝ち星を積み重ねる中日に8月下旬には9ゲーム差まで差を広げられた。そんな中、首の寝違えで8月12日より登録抹消されていた藤川は8月27日の対巨人戦で8回から復帰後初登板して勝利投手となりお立ち台に立つと、マスメディアからの批判やファンの野次に対して「選手も必死でやっているということを分かって下さい」と涙を流しながらコメントした。結局チームは優勝を逃したが、藤川自身は2年連続の最優秀中継ぎ投手を獲得した。(藤川球児 フレッシュアイペディアより)
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会田有志から見た豊田清
春季キャンプで一軍スタート組に抜擢され、キャンプにおける紅白戦やオープン戦でも12回・被安打6・与四死球1・失点1と安定した好投を続け、原辰徳監督らからも高い評価を受け開幕一軍スタートとなった。4月1日の対横浜戦で一軍初登板を果たし、史上初の親子での一軍登板を成し遂げた。4月26日の対横浜戦では1点リードされた8回に登板、満塁のピンチを招くも凌ぎ切り、直後に打線が逆転し逃げ切ったため、史上初の一軍での親子勝利を挙げた。前半戦においては一軍一年目にもかかわらず勝ちパターンの継投に組み込まれ、開幕から12試合で1失点と、林昌範と共に非常に安定した投球を見せた。前半戦終了時点でチーム2位の10ホールドを挙げた。投手総合コーチの尾花に前半戦のMVPと評される。しかし徐々に成績が悪化し、防御率が3点台を記録したところで登録抹消された。11月のインタビューで、「(本人曰く)腕だけ下げた誰でもできるアンダースロー」から肩痛を発症、登録抹消につながったことを発表した。同シーズンは上原浩治がクローザーとして固定されたことで、林昌範とともに豊田清がセットアッパーとして安定、勝ちパターンの継投に組み込まれた会田との4人組をTAHU(Toyoda-Aida-Hayashi-Uehara)とスポーツ報知が命名した。(会田有志 フレッシュアイペディアより)
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木村拓也から見た豊田清
12回表に救援登板した豊田清には、初球にフォークを投げさせるなど自らサインを出し、田中浩康を中飛に打ち取る。「豊田さんは直球とフォークしかないから。体を張って止めればいい」と割り切っていた木村だったが、バッター青木宣親のところで藤田宗一に投手交代。「球種が多くて大変でした」と語りながらも、1球目シュート、2球目カーブとバッターの裏をかく配球で入り、最後にスライダーで青木を三振に仕留めた。この後飯原誉士には四球を与え、アーロン・ガイエルに右前打を浴びたが、この回3人目の野間口貴彦が松元ユウイチをこのイニング合計23球目となる151km/hの速球で三振に仕留め、木村はその役割を見事に果たした。原はベンチを飛び出し、戻ってきた「捕手・木村拓」に抱きつくように何度も肩をたたいて活躍を讃えた。当日の試合で解説を担当した広島時代の恩師・山本浩二は「こんなに上手いと思わなかった」「涙が出そうになった」と語ったほどである。ちなみに木村自身は「冷静に見えた?そんなことはない。やりづらかったですよ。心臓はバクバク。恥ずかしくて…。照れもあった」と語り、直後のテレビ番組インタビューでは「(捕手は)もうやりたくない」と吐露したが、10年前に捕手として木村を起用した当時の広島の監督達川光男は、木村の性格からこの発言を「本職の捕手を立てるための気配り」と分析して賞賛した。(木村拓也 フレッシュアイペディアより)