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1998年の日本シリーズから見た豊田清
横浜が斎藤隆、西武が豊田清、ともに後年リリーフとして実績を残すこととなる両投手の先発。横浜は初回、安打で出塁の石井琢が二盗し、鈴木尚の適時打で先制という第1戦と同じパターン。5回には石井琢のソロ本塁打、ローズの適時二塁打で3対0とし、7回には再び鈴木尚の適時打で4対0とした。斎藤隆は初回に無死一・三塁のピンチを迎えたが、松井稼頭央を遊飛、鈴木健を三塁併殺打に仕留め、結局3安打完封勝利を飾った。日本シリーズ初登板完封勝利は第3戦の渡辺智男以来8年ぶり、史上9人目。(1998年の日本シリーズ フレッシュアイペディアより)
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初芝清から見た豊田清
には第一次バレンタイン政権の5番打者となる。同年のパ・リーグ打点王のタイトルはロッテのシーズン最終戦を残した9月27日現在で初芝79打点(残り1試合)、田中幸雄79打点(残り3試合)、イチロー78打点(残り3試合)と僅差で争っていた。一方、初芝は初のシーズン3割もかかっていて、9月27日現在で.302(454打数137安打)。最終戦で4打数0安打だと3割を切ってしまう(458打数137安打、打率.2991)ため、3割を切る可能性が出た時点で交代させると首脳陣から打診されたが、本人は「3割よりタイトルを狙いたい」とこの提案を拒んだ。そしてその最終戦では3打席凡退し(457打数137安打、打率.2997)、同年の最終打席になるであろう第4打席は8回2死走者なしで回ってきた。凡退すれば3割をフイにするうえ、走者なしのため本塁打でないと打点を上乗せできない状況で、見事にレフトへ25号本塁打(投手:豊田清)を打ち1打点を加え80打点でシーズンを終了。シーズン3割も確保した(458打数138安打、打率.301)。最終的に3人が80打点で並びタイトルを分け合うことになったとはいえ、このシーズン最終打席の本塁打により選手生活で唯一の打撃タイトル(打点王)を獲得、同時にシーズン3割を達成することができた。同年は三塁手のベストナインのタイトルを獲得。また同年オフの契約更改で、球団初の1億円プレーヤーとなる。(初芝清 フレッシュアイペディアより)
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上原浩治から見た豊田清
は故障により出遅れたため、8年連続での開幕投手及び9年連続開幕一軍スタートを逃した。プロ入り初の開幕二軍スタートとなった。序盤に抑えの豊田清の不調が重なったことでこの年は抑えとして起用されることになった。5月2日の中日ドラゴンズ戦でプロ初セーブを挙げた。8月5日には球団史上初の4日連続セーブを記録し、8月29日のヤクルト戦では球団新記録及びプロ野球タイ記録の月間11セーブを挙げた。9月26日の中日戦でも球団新記録となる31セーブを達成。最終的には32セーブを挙げ、MVP投票でも2位の評価を受けた。プロで20勝を挙げ30セーブを記録した投手は江夏豊に次ぎ史上2人目であった。中日ドラゴンズとのクライマックスシリーズ・2ndステージでは第2戦・第3戦に登板したものの、シーズンにもなかったビハインドの場面に登板。レギュラーシーズンで12試合登板無失点7セーブを記録していた中日打線にも李炳圭にソロ本塁打を浴びるなど追加点を許し、3連敗でのクライマックスシリーズ敗退後はベンチで号泣した。オフには初めて巨人の後輩(西村健太朗)を伴い自主トレを行った。(上原浩治 フレッシュアイペディアより)
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2017年の日本プロ野球から見た豊田清
読売ジャイアンツは来季の一軍コーチ陣を発表し、打撃総合コーチとして球団OBの吉村禎章が7年ぶりに現場復帰する他、ヘッドコーチの村田真一がバッテリーコーチを兼務。また二軍投手コーチの豊田清と二軍打撃コーチの小関竜也が一軍に昇格する一方で現一軍打撃コーチの江藤智はファームへ配置換えとなる。(2017年の日本プロ野球 フレッシュアイペディアより)
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広島東洋カープから見た豊田清
東日本大震災の影響で開幕が当初の3月25日から4月12日に変更となり、開幕直後は不振の前田健に代わり新加入のブライアン・バリントンとデニス・サファテに新人の福井優也、打撃では4年目の丸佳浩が活躍し、一時は首位に立つなど2位で交流戦を迎えたが、その交流戦ではリーグワーストの50イニング連続無得点、球団ワーストの4試合連続完封負けと打線が沈黙、交流戦を最下位で終えリーグ順位も5位に急降下、前半戦も5位で終える。後半戦に入ると、7月までわずか3本塁打の栗原が8月だけで9本塁打、25打点と活躍し月間MVPを獲得、チームも当時首位を走っていたヤクルトの急失速もあり、8月終了時点で首位と3.5ゲーム差の3位に浮上した。栗原は9月も好調を維持し、広島の打者として初めて2か月連続で月間MVPを獲得したが、チームはサファテ、豊田清と救援陣の相次ぐ故障離脱などで6勝16敗1分けと大きく負け越しAクラス争いから脱落。10月8日にはBクラスが確定。結果は、3年連続の5位。(広島東洋カープ フレッシュアイペディアより)