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専門学校トヨタ名古屋自動車大学校から見た豊田章一郎
1990年 - トヨタ自動車、春日センター内に新校舎完成。学校法人「トヨタ名古屋整備学園」として、愛知県知事より認可を受ける。理事長には豊田章一郎トヨタ自動車社長(当時)が就任。募集定員を520名とし総定員1,040名となる。(専門学校トヨタ名古屋自動車大学校 フレッシュアイペディアより)
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豊田喜一郎から見た豊田章一郎
卒業後、父・佐吉の意向で、経営者になるため9月から東京帝国大学法学部で1921年3月まで学んだ。その後地元の名古屋に戻った喜一郎は、豊田紡織に入社。1921年7月から1922年2月まで豊田利三郎夫妻とともにサンフランシスコ、ロンドン、オールダムなどを視察しマルセイユから上海経由で帰国した。父には発明より経営に重点を置くように指示されていたが、碧海郡刈谷町に試験工場を作り、自動織機の開発を開始。1926年に豊田自動織機製作所を設立し、常務取締役に就任。1929年から1930年4月まで欧米に出張し、当時、黎明期にあった自動車産業が将来大きく発展すると考え、1933年9月1日に豊田自動織機製作所内に自動車製作部門(のちに自動車部)を新設。1936年に自動車製造事業法の許可会社に指定されたことから、これが1937年にトヨタ自動車工業株式会社として独立し、同年同社の副社長に就任。1941年には社長に就任した。1936年から事業のため一家で東京市本郷区曙町(現本駒込)の借家に転居。1938年、工場のために田畑を移すのを避けたいという思いから、愛知県西加茂郡挙母町(現・豊田市)の荒地だった58万坪の土地を取得し、自動車工場を建設した。同年赤坂に家を買い転居したが、1945年5月に空襲により焼失。名古屋市八事の別荘「南山農園」で終戦の日を迎える。終戦後は食料確保のため庭でドジョウの養殖や、ウズラの飼育を行った。別荘はその後1997年まで豊田章一郎一家が住んだのち、トヨタ鞍ヶ池記念館に移築された。(豊田喜一郎 フレッシュアイペディアより)
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