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つきひざから見た豊真将紀行
十両では2003年7月場所4日目の増健(後の柳川)-北桜戦(増健●)、幕内では2004年9月場所3日目の旭天鵬-栃東戦(栃東●;栃東は右膝を痛め、翌日から休場)で初めて適用された。この他、2008年1月場所2日目の豊真将-北勝力戦(北勝力●)、2009年1月場所14日目の白鵬-千代大海戦(千代大海●)、2009年3月場所5日目の翔天狼-黒海戦(翔天狼●)、2010年7月場所12日目の徳瀬川-豪風(豪風●)、2011年1月場所12日目の白鵬-日馬富士戦(日馬富士●)、2012年1月場所3日目の天鎧鵬-芳東(芳東●)、2012年7月場所中日の旭天鵬-碧山(旭天鵬●)、2013年1月場所中日の若の里-千代大龍(千代大龍●)、14日目の豊ノ島-妙義龍(妙義龍●)などでも記録されている。(つきひざ フレッシュアイペディアより)
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里山浩作から見た豊真将紀行
奄美市立赤木名中学校へ入学と同時に相撲部へ入部し、その後に進学した鹿児島商業高校でも相撲部に所属して、アマチュア横綱を2度獲得している禧久昭広の指導を受ける。高校卒業後は禧久の母校でもある日本大学へ進学し相撲部に所属した。同期には白乃波や豊真将(ただし1年で退部)がいる。全国大会に出場して上位に入賞する活躍を見せたものの、三大タイトルを取れずに幕下付出の資格を得ることはできなかった。しかし、同じく幕下付出の資格を得られなかった白乃波の三保ヶ関部屋への入門が決まったので、大学の先輩である尾上親方(元小結・濱ノ嶋)と話し合って入門を決意し、大学卒業と同時に三保ヶ関部屋に入門して、2004年3月場所に前相撲から初土俵を踏んだ。(里山浩作 フレッシュアイペディアより)
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右肩上博保から見た豊真将紀行
宇部市立上宇部中学校3年次にスカウトを受けたため大嶽部屋に入門し、2004年3月場所で初土俵を踏んだ。同期入門には共に幕下15枚目格付出の大岩戸、高見藤のほか、前相撲から取った豊真将、木村山、磋牙司、里山、白乃波、出羽鳳らがいる。この場所取った前相撲は負けが込み、3番出世であった。初めて番付に名前が載った翌5月場所こそ勝ち越したが、それ以降は序二段から序ノ口で一進一退が続き、2007年1月場所で初めて三段目に上がるまで5年を要した。三段目昇進以降は三段目の地位に定着し、2008年9月場所では幕下に昇進。しかし幕下の壁にぶつかり、しばらくは幕下と三段目を行き来することとなる。(右肩上博保 フレッシュアイペディアより)