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稀勢の里寛から見た貴乃花光司
十両昇進は貴乃花に次ぐ年少2番目の記録(17歳9か月)であった。ただし十両では終盤戦で頻繁に立合い変化に敗れ失速、二桁勝利を挙げられず同時に十両昇進し、十両を2場所で通過した琴欧州、豊ノ島に遅れをとったが、わずか3場所で通過した。当時18歳であった萩原(稀勢の里)の将来と過去の大横綱とを重ね合わせて見ていた相撲ファンがいたことについては、2016年9月場所前の雑誌のインタビューで記者に問われた際に、「自分はそんなこと、考えてもいませんでしたよ」と答え、若さゆえの反発はなかったかと聞かれると13代鳴門の厳しさを指して、「そんなことが許される状況ではなかったからね(笑)当時、自分はあってないようなものでしたから」とコメントしている。(稀勢の里寛 フレッシュアイペディアより)
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白鵬翔から見た貴乃花光司
2004年5月場所で新入幕となる。19歳1か月での新入幕は貴花田(後の横綱・貴乃花)、北の湖、花田(後の大関・貴ノ花)に次ぐ当時史上4位の若さであった(外国人力士としては史上1位の若さ)。その場所、千秋楽まで単独で優勝争いの先頭に立っていた北勝力を立合いの変化で破り、星1つの差で追っていた同じモンゴル出身の横綱・朝青龍の「援護射撃」を果たし、自らも12勝3敗の好成績で貴花田の18歳7か月に次ぐ19歳2か月の若さで初三賞(敢闘賞)を受賞した。新入幕での12勝は、15日制になってから歴代3位タイ。入幕を果たした際には「親方、一番強い人を倒したときの懸賞を持ってきます。待っていてください」と熊ケ谷親方と約束した。2004年11月場所11日目、白鵬は朝青龍を送り出しで破って初金星を獲得。その夜、この一番に掛かった懸賞を持って熊ケ谷親方の前にやってくると、「ここまで来られたのも親方のおかげです。受け取ってください」と差し出した。この懸賞は熊ケ谷親方の自宅の居間の一番見えるところに飾ってあるという。この場所は終盤まで優勝を争い、12勝3敗の好成績で初の殊勲賞を受賞した。(白鵬翔 フレッシュアイペディアより)
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雅山哲士から見た貴乃花光司
関脇に陥落した平成13年(2001年)11月場所は公傷全休が適用され、平成14年(2002年)1月場所では関脇の地位で10勝以上挙げれば大関特例復帰だったが、怪我の回復が大幅に遅れ又も全休。公傷適用では無い為、翌3月場所は東前頭8枚目まで下がってしまったが、9勝6敗と5場所ぶりに勝ち越した。しかしその後も暫くは平幕の地位に低迷、時折三役に上がっても全く勝ち越せない状況が続いた。平成15年(2003年)1月場所では横綱貴乃花との取組で疑惑の判定に巻き込まれた上に右足を負傷するなどの不運を被った(後述)。だが、平成16年(2004年)7月場所に平幕で12勝3敗と優勝次点の好成績を挙げて大勝し、翌9月場所に関脇に戻ると9勝6敗の成績を挙げ、大関昇進を決めた場所以来となる三役での勝ち越しを果たした。それ以来上位に定着して、再度の大関挑戦を期待されるようになる。再大関を狙う中で父が死去するなど心労に見舞われたことでここまで持ち直すのに時間がかかったという。(雅山哲士 フレッシュアイペディアより)
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小坂秀二から見た貴乃花光司
TBS退職後は1975年に歯科医に復帰し、相撲評論家・著作家としても活動する。歯科医としては1989年に歯科診療所長を経て、自宅に総合医事研究所を開設し所長に就任し、患者の悩み事相談を受け付け、患者・医師会・厚生労働省(厚生省)の意志疏通を図り、歯科医療を扱う執筆活動を行う。相撲評論家・著作家としては相撲評論をはじめ、囲碁を扱う執筆活動を行う。相撲に関する著書や寄稿を膨大な数執筆し、双葉山から“若貴”までの歴代横綱のほぼ全員と面識があったという。著書の中で、柏戸と大鵬の「柏鵬時代」の語を最初に考えたのは自分だったと称している(曰く「柏鵬時代 使用随意」と大書した紙を国技館の記者控え室に貼りだした)。(小坂秀二 フレッシュアイペディアより)