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赤星憲広から見た読売ジャイアンツ
刈谷市立刈谷南中学校時代は軟式野球部に所属。1・2年生時は内野手だった。赤星によると、ポジションが同じで赤星よりも足が速い上級生(後に読売ジャイアンツのトレーナーとなる鬼頭健介)に出会ったことで、初めて「この人を越えたい」という気持ちを抱き、それをきっかけに努力することの楽しさに目覚めた。努力することに楽しさを見出したことで、野球に取り込むことも楽しくて仕方がないと感じるようになった。赤星曰く、野球に取り組んでいる際の性格が「熱く」なったのも中学時代で、「小学校時代に眠っていた部分が目を覚ました」と振り返っている。赤星は「野球というスポーツがなかったら、きっと僕はこんなひとつのことに熱くなれる人間になっていない」、「僕は野球に凄く感謝している」と述べている。3年生の時は投手を務めた。(赤星憲広 フレッシュアイペディアより)
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赤星憲広から見たゴールデングラブ賞
''、監督の野村は当時チーム内にいた俊足選手7人を「F1セブン」と命名し、赤星をその「1号車」に指名した。以下は藤本敦士(2号車)、沖原佳典(3号車)、上坂太一郎(4号車)、平下晃司(5号車)、松田匡司(6号車)、高波文一(7号車)であった。野村はまた、赤星が入団前に腰部のヘルニアを患った影響から調整が遅れていたにもかかわらず、一軍のキャンプに参加させた。前述のように赤星は非力で、2001年春のキャンプにおいても打球が内野の頭を越えないレベルであった(後に濱中治は「あの赤星さんがプロで活躍できるなんて、失礼ながら全く思いませんでした」と語っている)。野村は赤星に「出塁率を上げろ。三遊間に転がせ。内角も逃げるな」「打球が飛ぶというのは天性のもので、努力してもなかなか身につくものではないが、確率を上げることは練習で何とかなる」とアドバイスし、「自分の教えたようにやれば使える」と励ました。打撃練習においては藤本敦士とともに、「ゴム製のバンドを両ひじに巻いてゴロだけを打つ」ことを課せられた。赤星曰くこの練習により、右脇が開いてアッパースイング気味になる問題点が解消されていった。試合中、ベンチの中では野村の近くに座り、野村の発する言葉から「プロ野球のイロハを勉強させてもらった」という。赤星は「早い段階で、やみくもに努力するだけでは結果が出ない、考えてこそ結果に結びつくということを学べたのは大きかった」と振り返っている。走塁面の技術に関しては相当自信があり、クイックをきっちりやる投手が当時は少なかったことから「正直、プロでもこんなもんかと思った」という。赤星は1年目のシーズンを開幕一軍で迎えた。3月31日の対読売ジャイアンツ戦でセーフティーバントによるプロ初安打を記録。この安打について赤星は、相手投手が左投げの岡島秀樹で「簡単に凡退すれば、次に左ピッチャーと対戦する時に代打を送られる可能性が高くなる」場面であったことから、「たまたま一発で決まってラッキーな面もあった」と振り返っている。4月3日の対広島東洋カープ戦でプロ初盗塁を決めた。赤星はこの盗塁について、プロ生活における通算381個の盗塁の中で最も印象に残っていると振り返っている。5月にはレギュラーの座を獲得し、2番打者に定着して活躍。新人歴代4位となる39盗塁を記録し、阪神の選手としてはの吉田義男以来45年ぶり、阪神入団1年目の選手としてはの呉昌征以来となる盗塁王に輝き新人王も受賞。盗塁王と新人王のダブル受賞は史上初のことであった。さらにゴールデングラブ賞も受賞した。野村は赤星について、「よく練習していて、使おうという気にさせる選手だった」と評している。シーズンオフに入り、球団側から背番号53を若い番号へ変更することを打診される。一般的に新人選手は若い番号を与えられるほど期待されているといわれ、さらに53は「ゴミ」「誤算」に通じることから赤星自身も「入団当時は嫌で仕方がなかった」が、1年目からよい成績を残せたことで「『53』という数字は縁起のよい番号となり、愛着もわいた」「これを機に…『53』を自分の色に染めてやろう」と思うようになっていたことから変更を拒否した。2006年のシーズンオフにも片岡篤史がつけていた「8」への変更を打診されたが、拒否した。(赤星憲広 フレッシュアイペディアより)