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    輪島大士から見たパット・オコーナー

    大相撲を離れた輪島は、1986年に全日本プロレスに入門。全日本の総帥ジャイアント馬場のツテでアメリカの名レスラー・パット・オコーナーやネルソン・ロイヤルから指導を受ける。身体能力は高かったが、大相撲のクセが抜けずに「倒した相手を寝技に持ち込むことをせずに待ってしまう」という致命的な欠点があった。輪島大士 フレッシュアイペディアより)

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    輪島大士から見た清國勝雄

    ちゃんこ番等の雑務を免除され寝食を日大の宿舎で過ごさせ、食事は師匠の自宅に呼んで食べさせるという異例の特別待遇で入門し、幕下を2場所連続で全勝優勝して当時の最短記録で十両入り、十両も4場所で通過して初土俵からわずか1年で新入幕を果たした。三役昇進前から私生活は派手であり、場所入りの際にはリンカーン・コンチネンタルを乗り回していた。また髷を結う前の髪を伸ばしている時期にパーマを当てたり、トレーニングにランニングを取り入れたりして物議をかもした。1972年9月場所では千秋楽に貴ノ花との水入りの大相撲を制して、場所後に貴ノ花とともに大関に昇進した(大関昇進を機に、番付の四股名を「輪島博」から「輪島大士」に改名)。この取り組みは当時の皇太子ご一家が観覧されていた(皇太子、皇太后、現在の徳仁親王の3名)。7月場所が8勝7敗止まりであったことから本人もこの9月場所で昇進を決めることは諦めていたようであり、インタビュー記事での「清國、琴櫻、大麒麟の先輩3大関と比べ、自分はどこが違うか」という質問に対しても「先輩の皆さんは、すぐにも大関だ、大関だと言われながら苦労してなったでしょう。その点自分なんか運のいい男ですよ。まだ苦労が身についていないと思うんです」と話していた。大関昇進当初は横綱昇進を掴み取れるかどうかについて「『やっぱりやってみなくちゃ分からない』という答えしか出せない」と話していたが、大関になって4場所目の1973年5月場所を全勝優勝で飾り場所後に横綱に推挙され、初土俵からわずか3年半という超スピード出世で横綱へ上りつめ、史上初の学士・本名横綱が誕生した。輪島大士 フレッシュアイペディアより)

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    輪島大士から見た琴乃富士宗義

    十両になった時に羽織のたたみ方が分からないので、同じ一門である佐渡ヶ嶽部屋の琴乃富士(輪島より4学年下で当時は幕下以下。のち前頭5枚目まで昇進)に「先輩。どうやってたたむのか、教えてくださいよ」と頼んだ。輪島大士 フレッシュアイペディアより)

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    輪島大士から見た玉の海正洋

    同時に大関に昇進した貴ノ花とは、土俵を離れれば親友同士でもあった。「角界のプリンス」と言われた貴ノ花が、大横綱の大鵬や27歳の若さで急逝した玉の海と激闘を重ねたが、これとは対照的に「蔵前の星」と呼ばれた輪島は、ほんのわずかなタイミングのズレで大鵬とは対戦がなく、玉の海とも平幕時代に一度顔を合わせただけだった。それがかえって新しい時代を象徴する力士といった感を強くした。また一時期「貴輪時代」(きりんじだい)を期待されたが、貴ノ花はその後幕内優勝を2回達成したのみで、輪島と共に横綱昇進は果たせず、大関在位50場所(当時歴代1位・現在3位)目の1981年1月場所を最後に現役引退した。輪島大士 フレッシュアイペディアより)

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    輪島大士から見た豊山広光

    姓は輪島で石川県出身ではあるが輪島市出身ではなく、同じ能登半島の七尾市石崎町出身である。金沢高等学校・日本大学と相撲部で活躍。高校2年時には大鵬が二所ノ関部屋へ勧誘するべく実家まで訪れたこともある。大学では2年連続で学生横綱に輝くなど14個のタイトルを獲得した。学生横綱を決めた一番の相手は、同志社大学の逸見憲治(逸見政孝の実弟)であった。日大卒業前の1970年、花籠部屋(師匠は元幕内・大ノ海)に入門し、同年1月場所に幕下付出(60枚目格)で初土俵を踏んだ。東京農業大学出身の長浜(元小結・豊山、後の年寄・湊→立田川)は大学時代からのライバルである。輪島大士 フレッシュアイペディアより)

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    輪島大士から見た双葉山定次

    このころの両者の取り組みは、右で絞って北の湖に強引な上手投げを打たせ、下手投げを打ち返すかまたは右前廻しを引きつけて北の湖の腰を伸ばすのが輪島の勝ちパターン。北の湖が左下手廻しを引き、ガップリ四つになって胸を合わせるのが北の湖の勝ちパターンであった。1977年7月場所には1差で追う北の湖を退けて3度目の全勝優勝、同年11月には相星の北の湖を電光石火の切り返しで降し、大鵬に次ぎ双葉山と並ぶ当時史上第2位の12回優勝を記録した頃が、輪島の絶頂期であった。輪島大士 フレッシュアイペディアより)

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    輪島大士から見た牛田正郎

    日本熱学工業「コインクーラー」(1974年) - 新珠三千代と共演。同社社長の牛田正郎は輪島の後援会会長も務めていた。輪島大士 フレッシュアイペディアより)

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    輪島大士から見た仲田龍

    「お守り」として馬場が付いたタッグでのデビュー戦や、移動の際に一般レスラーのようにバスでなく新幹線を使うなどの特別待遇があった。このためマスコミは「他の選手が反発し、レスラー仲間がほとんどいない」などと悪意的に報じ、巡業中の輪島の様子を心配する記事が週刊プロレスにも掲載されている。しかし仲田龍によれば、輪島自身が馬場や会社から特別待遇を受けていることにあまり快く思わない他の選手のことを気にし、若手レスラーに食事を奢ったり、随分年下のレスラーや社員にも敬語を使い、年下である渕正信らのアドバイスを熱心に聞くなど、周囲に大変気を遣っていており、練習もきちんと行っていたとのことであり、「全く仲間がいなかった」「練習をしなかった」という訳ではなかった。輪島大士 フレッシュアイペディアより)

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    輪島大士から見た鷲羽山佳和

    輪島自身はそれほど大柄な部類ではなかったものの、千代の富士や鷲羽山などの小兵力士には絶対的な強さを見せたが、高見山などの巨漢力士に対しては脆さを見せることも多かった。高見山には、当時最多記録だった金星12個のうち7個を与えており、当時の同一力士への金星配給の最多記録を樹立してしまったほどだった。輪島大士 フレッシュアイペディアより)

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    輪島大士から見た若乃花幹士 (2代)

    1978年に入ると、輪島は3月場所の右膝靭帯の怪我や、年齢から来る体力、とりわけ持久力の衰えなどから、北の湖の後塵を拝することが多くなる。この年の7月場所14日目の北の湖との対決では、左四つ、輪島は左下手、北の湖は右上手と、ともに十分な廻しを取り合ういつもの体勢になった。輪島は北の湖の右上手投げを残すと、右からおっつけて、左下手で脅かす、両力士の攻防が決定打に欠ける中、北の湖は過去、慌てた攻めで輪島の左下手投げの餌食になった反省を踏まえ、持久戦に持ち込み、水入りとなった。控えに下りた両者だが、北の湖が普段と変わらぬ表情だったのに対し、輪島は肩で息をするなど、明らかに疲労感がにじみ出ていた。再開後は、北の湖が積極的に攻め、右上手から強引に振り回したあと、左下手を取り、がっぷり左四つの体勢から持久力の切れた輪島を寄り切った。この年ライバル北の湖は5連覇を達成した。しかし輪島は、この頃から右四つ左上手の取り口に進境を示し、千代の富士・栃光・栃赤城・双津竜など右四つ得意の力士には、むしろ自ら右四つに行き制する取り口が増えた。そもそも大相撲入門当初、軽量のハンデと右上手の力強さを考慮した形で左四つに転向したのであって、学生時代以前は右四つであった。そのことから本来の型に戻ったとも取れる。1979 - 1980年の晩年は、体力の衰えをこのいぶし銀の上手さと気力とで補い、前半戦は上位陣の中でも最も安定した相撲ぶりを見せることが多かった。若手が次々と台頭する中、1979年7月、1980年11月と二度の優勝を重ねたことは立派であると言えよう。輪島の部屋と大学の後輩である荒勢が北の湖にほとんど勝てず、輪島の援護射撃ができなかったことや、輪島が苦手にしていた豊山も北の湖には全く勝てないこと、若乃花や三重ノ海の横綱昇進などでライバルが増えたことなど、輪島に不運な一面が多々あった点も否めなかった。輪島大士 フレッシュアイペディアより)

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