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    輪島大士から見たジャイアント馬場

    大相撲を離れた輪島は、1986年に全日本プロレスに入門。全日本の総帥ジャイアント馬場のツテでアメリカの名レスラー・パット・オコーナーやネルソン・ロイヤルから指導を受ける。身体能力は高かったが、大相撲のクセが抜けずに「倒した相手を寝技に持ち込むことをせずに待ってしまう」という致命的な欠点があった。輪島大士 フレッシュアイペディアより)

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    輪島大士から見た金城興福

    1978年に入ると、輪島は3月場所の右膝靭帯の怪我や、年齢から来る体力、とりわけ持久力の衰えなどから、北の湖の後塵を拝することが多くなる。この年の7月場所14日目の北の湖との対決では、左四つ、輪島は左下手、北の湖は右上手と、ともに十分な廻しを取り合ういつもの体勢になった。輪島は北の湖の右上手投げを残すと、右からおっつけて、左下手で脅かす、両力士の攻防が決定打に欠ける中、北の湖は過去、慌てた攻めで輪島の左下手投げの餌食になった反省を踏まえ、持久戦に持ち込み、水入りとなった。控えに下りた両者だが、北の湖が普段と変わらぬ表情だったのに対し、輪島は肩で息をするなど、明らかに疲労感がにじみ出ていた。再開後は、北の湖が積極的に攻め、右上手から強引に振り回したあと、左下手を取り、がっぷり左四つの体勢から持久力の切れた輪島を寄り切った。この年ライバル北の湖は5連覇を達成した。しかし輪島は、この頃から右四つ左上手の取り口に進境を示し、千代の富士・栃光・栃赤城・双津竜など右四つ得意の力士には、むしろ自ら右四つに行き制する取り口が増えた。そもそも大相撲入門当初、軽量のハンデと右上手の力強さを考慮した形で左四つに転向したのであって、学生時代以前は右四つであった。そのことから本来の型に戻ったとも取れる。1979 - 1980年の晩年は、体力の衰えをこのいぶし銀の上手さと気力とで補い、前半戦は上位陣の中でも最も安定した相撲ぶりを見せることが多かった。若手が次々と台頭する中、1979年7月、1980年11月と二度の優勝を重ねたことは立派であると言えよう。輪島の部屋と大学の後輩である荒勢が北の湖にほとんど勝てず、輪島の援護射撃ができなかったことや、輪島が苦手にしていた豊山も北の湖には全く勝てないこと、若乃花や三重ノ海の横綱昇進などでライバルが増えたことなど、輪島に不運な一面が多々あった点も否めなかった。輪島大士 フレッシュアイペディアより)

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    輪島大士から見た若乃花幹士 (初代)

    1981年3月場所中に引退し、停年(定年)退職間近であった師匠とバトンタッチする形で花籠部屋(※平成時代の花籠部屋とは別)を継承した。年寄名も先代の名をそのまま継承し、「花籠 昶光」(はなかご ひさみつ)を名乗った(のちに花籠 大嗣(- ひろし)と改名)。しかし同年、9月20日にその先代が輪島の引退相撲を目前にして亡くなったため、断髪式では花籠部屋の兄弟子にあたり、二所ノ関一門の総帥格であった二子山が止め鋏を入れた。輪島大士 フレッシュアイペディアより)

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    輪島大士から見たスタン・ハンセン

    リック・フレアーのNWA世界ヘビー級王座に挑戦、スタン・ハンセンとのPWFヘビー級新王者決定戦に出場するなどマッチメイク面では優遇された(輪島が初登場した全日本プロレス中継で20%を超える視聴率を稼ぐなど、視聴率やチケット販売の影響と推測される)。輪島大士 フレッシュアイペディアより)

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    輪島大士から見た大乃国康

    「昭和の大横綱」と言われた北の湖とは最大の好敵手であり、2人で「輪湖時代」(りんこじだい)を築いた(北の湖との通算成績は23勝21敗で、ほぼ互角)。また、1973年11月場所では一場所15日制になった以降で唯一の、休場しながらの優勝(12勝2敗1休)という珍記録を持つ。ちなみに1989年3月場所で優勝した千代の富士は14日目の大乃国戦で左肩を脱臼して翌日の千秋楽を休場しているが、不戦敗の扱い。輪島大士 フレッシュアイペディアより)

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    輪島大士から見た皇后美智子

    ちゃんこ番等の雑務を免除され寝食を日大の宿舎で過ごさせ、食事は師匠の自宅に呼んで食べさせるという異例の特別待遇で入門し、幕下を2場所連続で全勝優勝して当時の最短記録で十両入り、十両も4場所で通過して初土俵からわずか1年で新入幕を果たした。三役昇進前から私生活は派手であり、場所入りの際にはリンカーン・コンチネンタルを乗り回していた。また髷を結う前の髪を伸ばしている時期にパーマを当てたり、トレーニングにランニングを取り入れたりして物議をかもした。1972年9月場所では千秋楽に貴ノ花との水入りの大相撲を制して、場所後に貴ノ花とともに大関に昇進した(大関昇進を機に、番付の四股名を「輪島博」から「輪島大士」に改名)。この取り組みは当時の皇太子ご一家が観覧されていた(皇太子、皇太后、現在の徳仁親王の3名)。7月場所が8勝7敗止まりであったことから本人もこの9月場所で昇進を決めることは諦めていたようであり、インタビュー記事での「清國、琴櫻、大麒麟の先輩3大関と比べ、自分はどこが違うか」という質問に対しても「先輩の皆さんは、すぐにも大関だ、大関だと言われながら苦労してなったでしょう。その点自分なんか運のいい男ですよ。まだ苦労が身についていないと思うんです」と話していた。大関昇進当初は横綱昇進を掴み取れるかどうかについて「『やっぱりやってみなくちゃ分からない』という答えしか出せない」と話していたが、大関になって4場所目の1973年5月場所を全勝優勝で飾り場所後に横綱に推挙され、初土俵からわずか3年半という超スピード出世で横綱へ上りつめ、史上初の学士・本名横綱が誕生した。輪島大士 フレッシュアイペディアより)

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    輪島大士から見たネルソン・ロイヤル

    大相撲を離れた輪島は、1986年に全日本プロレスに入門。全日本の総帥ジャイアント馬場のツテでアメリカの名レスラー・パット・オコーナーやネルソン・ロイヤルから指導を受ける。身体能力は高かったが、大相撲のクセが抜けずに「倒した相手を寝技に持ち込むことをせずに待ってしまう」という致命的な欠点があった。輪島大士 フレッシュアイペディアより)

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    輪島大士から見た千代の富士貢

    輪島自身はそれほど大柄な部類ではなかったものの、千代の富士や鷲羽山などの小兵力士には絶対的な強さを見せたが、高見山などの巨漢力士に対しては脆さを見せることも多かった。高見山には、当時最多記録だった金星12個のうち7個を与えており、当時の同一力士への金星配給の最多記録を樹立してしまったほどだった。輪島大士 フレッシュアイペディアより)

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    輪島大士から見た高橋義孝

    1973年5月場所、大関時代の輪島は途中から縁起をかついで14日目までひげを剃らずに土俵へ上がった。場所後に横綱昇進を果たしたが、無精ひげについては横綱審議委員会の席上、辛口の高橋義孝委員(ドイツ文学者、のち委員長)から「見苦しい」と物言いがついた。輪島大士 フレッシュアイペディアより)

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    輪島大士から見た北の富士勝昭

    1973年11月場所、12日目の貴ノ花戦では手のひらを負傷(右手人差指中指間裂傷)したものの勝利した。しかし、この傷のため満足な相撲が取れず、13日目は北の富士に外掛けで敗れ、連勝が27でストップ。連勝途切れたこともあり休場し、14日目は不戦敗、15日目は休場。しかし休場したものの優勝して登場した輪島は、インタビューで「私は今幸運に酔っている。幸運の女神様、来年もまた私のそばに来てください」ととんでもないコメントを残す。なお、大相撲の歴史上、休場したものの優勝した力士は他に1989年3月場所の千代の富士(14勝1不戦敗)だけであり、星取表に「休」を含む優勝者は、この時の輪島だけである。輪島大士 フレッシュアイペディアより)

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