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武相荘から見た農家
武相荘の歴史は1942年10月、白洲夫妻が当時の東京府南多摩郡鶴川村(現在の東京都町田市能ヶ谷)に農家を購入した事に始まる。その数年前から白洲夫妻は、戦況の悪化による空襲や食糧難を予測して農地の付いた郊外の家を探しており、当時の使用人の親戚が鶴川村で駐在をしていた縁で購入した。当時の次郎は日本水産・帝国水産統制株式会社(後のニチレイ)役員であったが、職を全て投げ打ち、退職金を注ぎ込んで購入した。内部は荒れていたため当初は東京市新宿区水道町(現在の東京都新宿区)にあった自宅から通い、ゆっくり修理すればよいと考えていたが、戦況の悪化に伴い1943年5月に正式に転居。自給自足の農民生活を始める。次郎41歳、正子33歳だった。以後の次郎は終戦まで専ら農作業に勤しんだ。(武相荘 フレッシュアイペディアより)
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ロシア軍 (白軍)から見た農民
それまで、白軍は勢力圏となった南部ロシアやウクライナの人口の大半を占めていた農民の支持を得ることに失敗していた。クリヴォシェーインは、新政府が農民を支持基盤に置く以上、彼らからの永続的な支持を得ることが肝心であると考えた。白軍司令官のほとんどは帝政派であり、栄光に満ちたロシア帝国の復活を望んでいた。そのため、中には非常に反動的な思考を持った人物も少なくはなかった。帝政時代に農奴として虐げられてきた農民らは、白軍の勝利によって再び以前の態勢が戻ることを警戒していた。ロシア帝国の農民は農奴解放令により自由を保障されていたものの、反動的政府によりその権利はしばしば侵されてきた。これに対し、クリヴォシェーインは土地を農民へ分け与え完全な個人所有とする土地改革を重要政策として打ち出した。ヴラーンゲリは、クリヴォシェーインの政策により、農民らの支持を得て勢力の回復がされることを期待した。農民の望む土地の個人所有はソビエトが全面否定しており、またソビエトは農民を敵視していたこともあり、ヴラーンゲリのロシアにとって農民への懐柔は有益であると考えられた。(ロシア軍 (白軍) フレッシュアイペディアより)
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台湾抗日運動から見た農民
台湾における抗日武装闘争は1915年までに、後の霧社事件を除いてほぼ終息したが、その後は主に日本に留学した台湾人知識人が主体となり、様々な自治要求運動、農民運動、労働運動、社会主義運動といった非武装社会運動が展開された。若林正丈によると、台湾漢族住民の抗日闘争は「台湾民主国」による抗戦から1915年までが前期武装闘争とされ、対して1915年以降の様々な政治・社会運動は後期抗日闘争と位置づけられている。向山寛夫は1901年に至るまでの台湾人側の抗日闘争を台湾側の武力抗日運動とし、一方で西来庵事件鎮圧以降に起きた台湾民族運動を、政党組織や言論によるブルジョワ民族運動とした。(台湾抗日運動 フレッシュアイペディアより)
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マゼッパ主義から見た農民
一方、ロシア帝国領小ロシアとなった地域では、イヴァン・マゼーパ(マゼッパ)の敗北以降次第にその自治権の縮小とロシアへの同化が推し進められていた。すなわち、ウクライナ人のロシア化、特に実態はすでに特権階級化していたスタルシナー(本来は選挙で選出されるウクライナ・コサックの長老)のロシア帝国貴族化が進められ、それに平行してロシア人のウクライナへの植民も推進された。ウクライナにはロシア帝国貴族が大地主として君臨し、入植によって都市住民の多くもロシア人となった。もともとその多くが農民やコサックであったウクライナ人は、主として農村に生活することとなった。こうした都市と農村の分断状況は、両者がまるで外国であるかというほどであったと言われる。(マゼッパ主義 フレッシュアイペディアより)