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北野誠 (タレント)から見た遺産
1985年暮れ、北野がフグを食べに行こうと誘ったその日に、父親が焼身自殺。葬式を執り行った後、遺産と借金の整理に追われ自宅を残し土地の殆どを売却する。会社の借金を個人が弁済する義務を回避することもできたが、TVで仕事をする上で後々債権者らに難癖をつけられる事を嫌い、返済期間を1年と区切り、弁護士と母を説得して抵当に入っていた土地を手放し債権者に割り当てる。父親の会社は経営的な破綻を起こしていたが、遺書も残さず死に至った直接な原因が不明だった事に加え、煩雑な債権処理に忙殺され北野の芸風も雑なものとなり、改編で出演番組が終了した後は新規レギュラーが入ってこず、ジリ貧状態に陥る。表情も乏しく陰鬱な雰囲気の北野に周囲も近寄らなくなり、あまりの憔悴振りに見かねたやしきたかじんと嘉門達夫が、北野の起用を渋る局側を説得し自身の番組に度々ゲスト出演させる。この時期にABCの新入社員であった板井昭浩が新しいラジオ番組の立ち上げを考えている事を北野に打ち明ける。「探偵!ナイトスクープ」では嘉門達夫の推薦もあり新探偵として番組初期から中途加入。周囲が機転を利かし局長秘書が抜けた代役に北野の実母を充てたりと、同番組が高視聴率番組に成長した事がきっかけで認知度も上がり、塞ぎがちだった気分も落ち着き、平常通り振舞えるようになる。1988年4月からは、自身のアイデンティティともいえる「誠のサイキック青年団」がスタートする。なお父親の自殺は当時ほとんど公にしていなかったが、後に「いつみても波瀾万丈」(日本テレビ、2003年)にゲスト出演した際にこの件に触れている。(北野誠 (タレント) フレッシュアイペディアより)
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岡山弁護士巨額横領事件から見た遺産
その後の調べで、2006年から2012年まで交通事故・医療過誤・遺産相続等の民事訴訟に伴う賠償金や刑事訴訟の保釈金について22件計9億円の横領をしていたことが判明し、業務上横領罪で追起訴された。(岡山弁護士巨額横領事件 フレッシュアイペディアより)
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藤本真澄から見た遺産
日本映画の黄金時代、量産時代に300本近い作品をプロデュースし、その3分の2をヒットさせた活動屋。大変な高給取りであり、毎晩銀座の一流バーで散財していたと伝えられる。しかし生涯独身だったこともあってか、かなりの遺産を残し、藤本賞は今もその遺産を基にして運営しているといわれる。藤本の性格は、声が大きく、口角泡を飛ばして怒鳴ってばかり、ガサツ、とてもせっかち、など、共に働いた人からの藤本評は、あまり好意的ではない。白川由美は「原節子さんが好きで、結婚を申し込んだようですが、軽くいなされたという話はウワサとして聞いたことがあります。あのおっとりとした原さんとは、合わなかったんじゃないですか」と話している。金子正且は「あれだけの地位にいて、穏やかないいひとだったら、女性が放っておかなかったんでしょう。藤本さんと噂になったのは水商売の女性ばかり」と述べている。藤本が生涯独身だったのは、一説によると原節子への愛によるものといわれる。1963年にスクリーンを去った原に、藤本は自身が亡くなるまで、女一人生活していけるだけの給料を支払っていた。(藤本真澄 フレッシュアイペディアより)
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相馬大作事件から見た遺品
父が病気と聞いて帰郷し、1818年(文政元年)に郷里福岡の自宅に私塾兵聖閣(へいせいかく)を開設。相馬大作の姉婿の田中館栄八や下斗米惣蔵、欠端浅右衛門、田中館連司、一条小太郎などの人々数十人が入門した。同塾では武家や町人の子弟の教育にあたった。同年10月、同塾は近郷の金田一に移転する。兵聖閣は、すべて門弟たちの手によって建設され、講堂、武道場(演武場)、書院、勝手、物置、厩、馬場、水練場などを備えていた。門弟は200人をこえ、数十人が兵聖閣に起居していたといわれている。その教育は質実剛健を重んじ、真冬でも火を用いずに兵書を講じたと伝わる(二戸市歴史民俗資料館に遺品の大刀、大砲、直筆の遺墨碑(拓本)が展示されている)。当時、北方警備の必要が叫ばれ始めていたが、大作も門弟に「わが国の百年の憂いをなすものは露国(ロシア)なり。有事のときは志願して北海の警備にあたり、身命を国家にささげなければならない」と諭していたという。この思想は、師匠の平山行蔵の影響とされる。(相馬大作事件 フレッシュアイペディアより)