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邪馬台国から見た山門郡
古くは邪馬台国は大和の音訳として無条件に受け容れられており、この論争が始まったのは江戸時代後期である。新井白石が「古史通或問」において大和国説を説き、「外国之事調書」では筑後国山門郡説を説いた。その後、国学者の本居宣長は卑弥呼は神功皇后、邪馬台国は大和国としながらも「日本の天皇が中国に朝貢した歴史などあってはならない」という立場から「馭戎概言」において、九州熊襲による偽僭説を提唱した。大和朝廷(邪馬台国)とはまったく別でつながることはない王国を想定し、筑紫(九州)にあった小国で神功皇后(卑弥呼)の名を騙った熊襲の女酋長であるとするものである。これ以来、政治的意図やナショナリズムを絡めながら、学界はもちろん在野研究者を巻き込んだ論争が現在も続いている。この論争は、すなわち、正史としての『日本書紀』の記述の信頼性や天皇制の起源に影響するものである。漢委奴国王印とともに、一般にもよく知られた古代史論争である。(邪馬台国 フレッシュアイペディアより)
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邪馬台国から見た漢委奴国王印
古くは邪馬台国は大和の音訳として無条件に受け容れられており、この論争が始まったのは江戸時代後期である。新井白石が「古史通或問」において大和国説を説き、「外国之事調書」では筑後国山門郡説を説いた。その後、国学者の本居宣長は卑弥呼は神功皇后、邪馬台国は大和国としながらも「日本の天皇が中国に朝貢した歴史などあってはならない」という立場から「馭戎概言」において、九州熊襲による偽僭説を提唱した。大和朝廷(邪馬台国)とはまったく別でつながることはない王国を想定し、筑紫(九州)にあった小国で神功皇后(卑弥呼)の名を騙った熊襲の女酋長であるとするものである。これ以来、政治的意図やナショナリズムを絡めながら、学界はもちろん在野研究者を巻き込んだ論争が現在も続いている。この論争は、すなわち、正史としての『日本書紀』の記述の信頼性や天皇制の起源に影響するものである。漢委奴国王印とともに、一般にもよく知られた古代史論争である。(邪馬台国 フレッシュアイペディアより)