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三浦泰年から見た都並敏史
Jリーグ発足に伴い、1992年に前身となるチームを持たず新規に立ち上げられた清水エスパルスに移籍し初代主将を務める。『清水東三羽烏』と呼ばれた堀池巧、長谷川健太、大榎克己らとともに清水の主力選手として活躍。清水ではボランチを務めたが、1993年、都並敏史のケガにより日本代表が左サイドバック不在に陥いると、読売時代にサイドバックの経験がある三浦が日本代表に選出され1994 FIFAワールドカップ・アジア予選に出場した。しかし最終予選のサウジアラビア戦こそ無難にこなせたものの、イラン戦では都並より守備が出来ない程の守備難が祟り、度々左サイドを突破され2-1で敗れる元凶となり、後の3試合を勝矢寿延にポジションを譲った。(三浦泰年 フレッシュアイペディアより)
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森孝慈から見た都並敏史
森は辞意を表明したが慰留され、1985年に開催された1986 FIFAワールドカップ・アジア予選では北朝鮮代表に史上初めて勝利し、平壌金日成競技場で北朝鮮代表と"完全アウェー"を戦うなど1次予選、2次予選を突破。宮内聡と西村昭宏で、後に世界の主流になるダブルボランチをいち早く取り入れるなどで1985年10月の最終予選に進出。当時のW杯でのアジアの出場枠は「1」(東アジアと西アジアで1枠ずつ)。この当時の代表チームは守備の加藤久、左サイドバックの都並敏史、右サイドバックの松木安太郎、中盤の木村和司、前線の原博実、水沼貴史ら、職人気質の個性派を擁し、強い結束力を持ち合わせた事から森ファミリーと呼ばれた。北朝鮮とのアウェー戦に、累積警告で出場停止だった松木安太郎を「彼もチームの一員だから」と帯同させた。感謝に震えながらボール運びなど下働きする松木を仲間は暖かく包んだ。(森孝慈 フレッシュアイペディアより)