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高岡城から見た金沢城
廃城前に天守や櫓などが建てられていたかどうかは定かではなく、1612年(慶長17年)に写したとの記述のある現存最古の高岡城図には、天守予定地と目される本丸北隅には材木蔵と記されており、前田利長が高岡へ入城して3年後の時点ではいまだ天守は築かれていなかったものとみられる。廃城後の建物群については、現在知られている城図の中に、その配置や寸法を記したものがあり、大きなものでは、本丸に長さ24間(約43.4m)の米蔵が2棟、50間(約90.9m)の塩蔵が1棟あったことがわかっている。金沢城に今も残る三十間長屋や、近年再建された五十間長屋と同様の蔵が高岡城にも置かれていたものと考えられる。建築遺構は現存せず、石垣の一部や井戸が残るのみである。(高岡城 フレッシュアイペディアより)
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山口修弘から見た金沢城
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、父と共に西軍に属する。7月26日に加賀金沢の前田利長は約20000の軍を率いて金沢城を出撃し、西軍の丹羽長重の拠る小松城を攻撃するかに見えたが、急遽、これを避けて8月1日に加賀松山城に入城した。父・宗永はその危急を聞いて、大聖寺城の防備を堅め、北ノ庄城の青木一矩や小松城の丹羽長重に救援依頼の使者を派したが間に合わなかった。翌2日、利長は九里九郎兵衛・村井久左衛門を使者として大聖寺城に籠もる山口宗永に降伏を勧告したが、宗永は勧告を拒否した。前田勢は城攻めを行った。修弘は、父の籠城策に異を唱え、城近くに伏兵を潜ませてゲリラ戦による迎撃の指揮をとり先鋒の山崎長徳の軍勢を撹乱したものの、前田勢にかなわず城からの援護で城に逃れ、篭城戦の構えをとった。(山口修弘 フレッシュアイペディアより)
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岸駒から見た金沢城
この名声を岸駒は活用し、天明4年(1784年)有栖川宮家の近習となり、同家の御学問所の障壁画を描く。翌年、宮家より雅楽助と称すことを許され、名を岸駒に改め、字を賁然(ひねん)、号を華陽とする。有栖川宮の庇護のもと、天明の大火で焼失した御所の障壁画制作に活躍し、同家の推挙もあって享和2年(1802年)に右生火官人(ういけびのかんにん)に補せられて従六位下主殿大属(とのものだいさかん)に叙任、に越前介を兼ね、天保7年(1836年)には蔵人所衆に推補のうえ従五位下叙爵、翌8年越前守に任ぜられる。文化6年には加賀藩主の招きに応じて金沢に赴き、金沢城二の丸御殿に障壁画を描いて故郷に錦を飾った。天保9年(1838年)、83歳あるいは90歳の長寿を全うして没した。(岸駒 フレッシュアイペディアより)
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望月玉川から見た金沢城
寛政6年(1794年)、望月派2代絵師の望月玉仙の子として京都に生まれる。翌寛政7年(1795年)に父を亡くして、はじめは村上東洲に後に岸駒に師事して画法を学んだ。文化6年(1809年)の金沢城二の丸御殿障壁画作成には玉川も岸駒の弟子として参加している。その後は長崎で過ごした後に江戸に出て、四条派の絵師谷文晁の教えを受けた。玉川は同じく四条派の絵師呉春の画風を慕って大きく家法を改めて望月派3代目として一家を成し、家風である望月派に加え岸派、四条派をも取入れた情緒的な画風の山水花鳥画を得意として名を遺した。門弟に子の望月玉泉、玉川の画法の影響を受けた画家として佐藤魚大がいる。嘉永5年3月6日に玉川は死去した。墓所は京都市東山区の大雲院。(望月玉川 フレッシュアイペディアより)