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加賀宝生から見た金沢城
加賀藩が宝生流を取り入れたのは五代藩主前田綱紀の時代とされる。綱紀ははじめ能楽をほとんどたしなまなかったが、能楽を愛好する江戸幕府5代将軍徳川綱吉から能を所望されたことを契機に稽古に励んだ。綱吉が宝生流を取り立てていたことから、綱紀は宝生流を学び、貞享3年(1686年)4月に江戸城の将軍御前で「桜川」を初めて演じたという。幕府向けの外交政策としての側面は否定できないものの、宝生友春の芸風に惹かれた綱紀は藩内の能楽を宝生流で統一することとし、金春流の竹田権兵衛以外の役者に宝生流への改流を命じ、元禄5年(1692年)には友春の次男嘉内を江戸で15人扶持という破格の厚遇で召し抱えた。また綱紀は元禄元年(1688年)に金沢城内で美術工芸品の製作や修復を手掛ける御細工所の御用職人に対し、本職のほかに謡や囃子を兼芸として課し、演能のための人材を確保した。(加賀宝生 フレッシュアイペディアより)
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石川県道17号金沢港線から見た金沢城
1616年(元和2年):加賀藩3代目藩主前田利常が宮腰から金沢城のある城下町までを直線で結ぶ往還を作り上げた。また、この往還は前田利常が金沢城から見渡すかがり火が一直線上になるように線引きしたとされている。(石川県道17号金沢港線 フレッシュアイペディアより)
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