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本多政礼から見た金沢城
寛政元年(1789年)12月30日加賀藩家老本多政成の子として生まれる。享和3年(1803年)父政成の死去により家督と5万石の知行を相続する。藩主前田斉広に仕え年寄、人持組頭、藩財政の最高責任者・勝手方主付等を歴任。文化元年(1804年)12月従五位下安房守に叙任。文化5年(1808年)金沢城二の丸御殿の焼失により屋敷を藩主居館とする。文政3年(1820年)7月13日没。家督は長男政和が相続した。次男連弘は外祖父長連愛の養子となって家督を継いだ。三男政醇は500石の分知を受けて分家した。政醇の嫡男本多弥一政得は、従兄弟の宗家本多政均の家老となり、明治2年(1869年)政均が暗殺されると、明治4年(1871年)15人の同士と共に仇討ちを遂げた。(本多政礼 フレッシュアイペディアより)
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金石 (金沢市)から見た金沢城
金石(旧宮腰)は北前船の寄港地で繁栄した地域で、かつて銭屋五兵衛を代表とする商人が金石を拠点に商業活動が盛んに行われた。加賀藩時代、前田利家が宮腰から金沢城へ入城した縁もあり加賀藩の外港として優遇を受けていた。加賀藩の外港で材木などの物資の物流拠点として繁栄する。しかし、隣接する大野港にも外港機能があり、大野村(加賀藩期)と宮腰町の間で様々な利権の対立が絶えなかった。このような状況を見兼ねた加賀藩は宮腰町と大野村を地域として融合させようと1866年(慶応2年)に両地区を合併させた。「固いこと金石(きんせき)の交わり」(固い約束の意味)から金石(かないわ)を町名として採用した。これが、金石の由来となる。宮腰地区は金石町本町となり、1889年(明治22年)の町村制施行後は石川郡上金石町になる。(金石 (金沢市) フレッシュアイペディアより)
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第9師団 (日本軍)から見た金沢城
日清戦争の後、軍備増強の必要性から1898年(明治31年)に新設された6個師団の一つで、北陸の富山・石川・福井各県の兵士で構成され、衛戍地を金沢として編成された師団である。第18師団(久留米市)と、陸軍内部でその精鋭さでは双璧といわれた。1898年11月8日、師団司令部と師団監督部が開庁した。同年11月29日、監督部は旧金沢城内の新築庁舎に移転。(第9師団 (日本軍) フレッシュアイペディアより)
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溶姫から見た金沢城
文久2年(1862年)閏8月、文久の改革により参勤交代制が緩和され、大名妻子の国許居住が許可されたが、溶姫は将軍家や母・お美代の方との義理からすぐには帰国しなかった。翌文久3年(1863年)3月、溶姫は帰国費用として幕府より3万5千両を借用し、盛大な行列を組んで4月3日に江戸を出発、24日津幡に到り、出迎えの慶寧と対面し、金沢城二の丸御広式に造られた御殿に入った。しかし元治元年(1864年)9月、禁門の変後の情勢により幕府が参勤交代制を元に戻すと、溶姫は江戸に戻りたいと申し出た。禁門の変では加賀藩世子である長男・慶寧が御所警備の任についていたが、病により退去したため長州藩側との内通を疑われ、佐幕派の夫・斉泰が慶寧を謹慎させた上で、慶寧の側近を倒幕派として処罰していた。こうした不安定な世情であったため、斉泰は江戸に戻ることを止めたが、溶姫は10月24日に金沢を出発し、11月22日江戸に到着した。(溶姫 フレッシュアイペディアより)