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水野昭憲から見た金沢城
石川県の職員として25年間の勤務経験があり、石川県庁自然保護課では白山自然保護センターの設立などを担当し、国際協力事業団(JICA)から派遣されて、エチオピアやマレーシアにおける野生動物の保護管理、国立公園整備に従事。海外での活動歴が通算8年に上り、金沢大学が金沢城内から角間キャンパスに移転する際の環境アセスメントに参加した縁で、里山自然学校の活動にもかかわる。動物生態学が専門。石川県立自然史資料館館長。2008年(平成20年)5月に始まった北國新聞社の舳倉島・七ツ島自然環境調査団(団長=藤則雄金沢大学・金沢学院大学名誉教授 )の合同調査で動物班の班長をつとめ、2009年10月23日、輪島市沖の舳倉島で弱った野鳥を捕食するノネコ(feral cat)の繁殖防止にかかわった。フサオマキザルの採食行動についての共同研究がある。「森下正明にまつわる研究者」のひとりにあげられている。(水野昭憲 フレッシュアイペディアより)
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前田利政から見た金沢城
利家死後の慶長5年(1600年)、豊臣政権五奉行の石田三成らが毛利輝元を擁立して五大老の徳川家康に対して挙兵すると、兄・利長と共に東軍に属し関ヶ原に向かう途中、北陸の西軍方の大聖寺城の山口宗永を陥れた。しかし、途上で突如、利長たちは金沢へ引き返した(一説には敦賀城主大谷吉継側の謀略によるといわれる)。金沢城へ引き返したあと利長が再出陣するが、利政は動かなかった。その原因は妻子が三成の人質となっていたためともいわれる(『象賢紀略』)、また利政は家康に対する反発心から石田三成方に気脈を通じていたとする指摘もある。見瀬和雄は利政は妻子の救出を図ろうとしたが、事態が急速に展開し、利長が出陣したために、病気と偽り出陣しなかったのではないかとし、石田方であったとする説を否定している。また、『天寛日記』の一節を引用して、利政が石田方についたと家康に訴え出たのは他ならぬ利長であったと指摘している。(前田利政 フレッシュアイペディアより)