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宮崎駿から見た鈴木敏夫
その後、リニューアルされ人気を博していた『ルパン三世』の映画を一緒にやろうと大塚に持ちかけられ、当初は「もうルパンは古臭い」と宮崎は乗り気ではなかったが最終的に了承。その為テレコム・アニメーションフィルム(東京ムービー新社内)に移籍し、映画『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年)で映画作品の監督デビューをした。宮崎は「カリオストロではじめて体力の限界を知った」というほど、監督として映画製作に尽力し、4ヵ月半という短い期間で作り上げた。しかし、当時の『2ndルパン』のイメージと違う作風や、SFアニメ全盛の時代ということもあって、大衆受けはせず、興行的には前作に及ばなかった。むしろ興行的不振のために、しばらくの間映画に携われない不遇の時を過ごすことになった。しかし後に、再放送されては高視聴率をあげるなど、アニメーションの金字塔的作品として高い評価を受けている。この直後には、『ルパン三世』で最終回含め2話の制作に脚本、絵コンテ、演出として携わっている。後の『風の谷のナウシカ』に登場する巨神兵や飛行船など、この頃から構想があったとみられる。『カリオストロの城』制作時に、当時『アニメージュ』副編集長で取材に訪れた鈴木敏夫と出会っている。(宮崎駿 フレッシュアイペディアより)
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風の谷のナウシカ (映画)から見た鈴木敏夫
アニメージュを発行する徳間書店と広告代理店の博報堂による製作委員会方式で映画化され、宮崎自身が監督・脚本を手がけた。高畑勲・鈴木敏夫・久石譲ら、のちのスタジオジブリ作品を支えるスタッフが顔を揃えている。(風の谷のナウシカ (映画) フレッシュアイペディアより)
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風立ちぬ (2013年の映画)から見た鈴木敏夫
スタジオジブリの鈴木敏夫に対して、アニメーション監督の庵野秀明が「零戦が飛ぶシーンがあるなら描かせてほしい」と申し入れている。仮に庵野の参加が正式決定していれば、1984年公開の『風の谷のナウシカ』以来の宮崎作品への参加となるはずだった。しかし、宮崎は、作画スタッフとしてではなく本作の主人公として出演するよう、庵野に要請した。庵野は困惑しつつもオーディションを受けたが、その直後に宮崎から改めて出演を依頼されたため、庵野も出演を受諾した。宮崎は主人公のイメージとして「早口である」「滑舌がよい」「凛としている」の3つを挙げており、庵野を選んだ理由として「いい声だからでなく、存在感で選んだ」としている。なお、庵野にとって声優参加作品としては『フリクリ』のミユミユ役以来、主演映画作品としては『帰ってきたウルトラマン マットアロー1号発進命令』以来となる。(風立ちぬ (2013年の映画) フレッシュアイペディアより)
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ABCアシッド映画館から見た鈴木敏夫
インタビュー インタビューには主に監督や製作に関わった人物が多く、出演している役者へのインタビューは少な目。代表的なものに西冬彦や鈴木敏夫、ジョージ・ルーカス(通訳・戸田奈津子)にインタビュー。不定期企画。(ABCアシッド映画館 フレッシュアイペディアより)
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川上量生から見た鈴木敏夫
その後、スタジオジブリの鈴木敏夫と出会い、ドワンゴの会長のままスタジオジブリに入社。スタジオジブリでは見習い扱いのため、無給である。2013年8月より、庵野秀明が率いる株式会社カラーの取締役に就任した。また、角川ホールディングス(のちのKADOKAWA)においては、当初は社外取締役として役員に就任していたが、2013年2月より同社の子会社の業務を担当することになったことにともない、社外取締役から通常の取締役となった。2014年5月、ドワンゴとKADOKAWAの経営統合を発表し、2014年10月に設立したKADOKAWA・DWANGO(現カドカワ)の代表取締役会長に就任、2015年5月に同社代表取締役社長に就任。2017年12月21日にドワンゴの代表取締役会長を退任し、取締役CTOとなった。(川上量生 フレッシュアイペディアより)