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原子力撤廃から見た鈴木敏夫
スタジオジブリ発行の小冊子『熱風』2011年8月号の特集「スタジオジブリは原発ぬきの電気で映画をつくりたい」では、宮崎駿、鈴木敏夫、河野太郎、大西健丞、川上量生による特別座談会が掲載されており、宮崎駿は原発をなくすことに賛成と語っている。座談会では他に、2010年夏に福島の原発施設内(福島第二原子力発電所エネルギー館)に知らないうちにトトロの店が置かれていたことが発覚し撤去させたことや、ジブリとしては原発に反対であることなども語られている。また2011年6月から、東京都小金井市のスタジオジブリの屋上に、「スタジオジブリは原発ぬきの電気で映画をつくりたい」と書かれた横断幕が掲げられている。(原子力撤廃 フレッシュアイペディアより)
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見上げてごらん夜の星を (曲)から見た鈴木敏夫
2011年、スタジオジブリのアニメ映画「コクリコ坂から」では坂本九の『上を向いて歩こう』が挿入歌とキャッチコピーとして使用されているが、脚本の宮崎駿は同曲があまり好きではなく、また映画の舞台となった1963年当時の代表曲を使いたいという宮崎吾朗監督の意向から当初は『見上げてごらん夜の星を』を使用する予定であったが、鈴木敏夫プロデューサーが「あのころの少年にとって九さんの歌は『上を向いて歩こう』しかないよ」と変更したという。(見上げてごらん夜の星を (曲) フレッシュアイペディアより)
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生きものの記録から見た鈴木敏夫
鈴木敏夫は東日本大震災後に本作品を改めて見た解釈として「以前にくらべて「受け取る印象がこうも違うのか」と思いましたし、すごくリアリティがあった。黒澤っていう人は面白いなと、つくづく思いましたね。」「今観ると言いたいこともはっきりしているからすごくリアリティがあって。多くの人に、今観てほしい作品」「黒澤監督は、関東大震災を目の当たりにしているそうなんですね。たくさんの瓦礫と人の死が自分の記憶の底に残った、と著書に書いていて、そういう意味でも戦争や核の問題に対して敏感だったんでしょう。昔観たときは、『生きものの記録』はむしろ「喜劇映画かよ」っていう印象でしたが、震災を経ることによって、黒澤監督が作品に込めた考えが、やっと伝わってきたような気がしています。」と述べている。(生きものの記録 フレッシュアイペディアより)
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マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィットから見た鈴木敏夫
2015年、スタジオジブリの鈴木敏夫より打診され、自身初の長編映画『レッドタートル ある島の物語』の監督に就任。スタジオジブリとワイルドバンチの出資を受け、2007年頃より製作準備に入った。日本の東京都小金井市に転居し、シナリオと絵コンテを作成した。高畑勲らのチェックを受けたうえで、絵コンテが完成すると今度はフランスに戻り、本格的な製作に入った。2016年5月、『レッドタートル ある島の物語』にて、カンヌ国際映画祭のある視点部門特別賞を受賞した。そのほか、同年9月にアテネ国際映画祭の審査員特別賞と観客賞を受賞している。(マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット フレッシュアイペディアより)
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徳間康快から見た鈴木敏夫
アニメーションにも造詣が深く、当時はまだ一般的には無名だった宮崎駿を「大物」と認めて、『風の谷のナウシカ』を製作するチャンスを与えた。スタジオジブリ設立時にも出資して初代社長となり、その後も宮崎や高畑勲の作品制作を支援した。宮崎によれば、「天空の城ラピュタ」制作時に資金繰りで行き詰まりかけ徳間に相談したところ、「『カネ』ならいくらでもあるぞ!『銀行に』(笑い)」と助言されたという。鈴木敏夫は、徳間が銀行から金を借りるのは「ほんとうにうまかった」と述べている。また、『となりのトトロ』では当初東宝が赤字を危惧して配給に消極的だったところ、徳間が「ならば東宝には『敦煌』を配給しない」と切り返し、紆余曲折の末と『火垂るの墓』との同時上映という形で無事配給にこぎ着けた。鈴木は、徳間が文芸作品を娯楽映画にする夢を持っていたとし、徳間としての思いはむしろ『敦煌』にあったのではないかと述べている。その後、徳間はともに自らが出資する『おろしや国酔夢譚』を『紅の豚』の直前に公開し、『紅の豚』のプロデューサーだった鈴木に「勝負だ」と持ちかける子どもっぽい面もあった。(徳間康快 フレッシュアイペディアより)