-
山崎福也から見た鉄平 (野球)
'には、一軍公式戦で15試合に登板。一軍での左投手不足を背景に、先発で7試合、救援で8試合に起用されたが、シーズンを通じて調子の波が激しかった。先発で登板した7月10日の対北海道日本ハムファイターズ戦(京セラドーム大阪)では、138球を投げた末に一軍公式戦での初完封を記録。関西圏以外の球場におけるビジターゲームでの先発登板では、序盤から大量失点を喫した2試合で、前年から一軍監督へ就任していた福良から早期降板と試合中の帰阪を命じられた。シーズン終了後の11月30日には、背番号を鉄平外野手の退団(2015年)以来空番であった0に変更することが、球団から発表された。国内FA権の行使によって日本ハムから移籍した増井浩俊が背番号17を付けることに伴う変更で、オリックスの投手が背番号0'を着用する事例は、オリックスブルーウェーブ時代の途中からまで川畑泰博が付けて以来である。(山崎福也 フレッシュアイペディアより)
-
礒部公一から見た鉄平 (野球)
シーズン序盤は不動の3番・右翼手での先発出場が多く、一時は首位打者争いにも加わったが、交流戦以降の不振や守備の衰えから鉄平、草野大輔が3番に置かれた。守備面では左翼手としてスタメンに出場したり、チームの若返り構想から守備で勝る牧田明久にスタメンを奪われることも増えた。結果的にシーズン後半は6番以降や代打で出ることが多くなった。シーズン末に出場機会を求めてFA権の行使をする動きも見られたが「野村監督を胴上げしたい」と2006年に続き残留した。ただし、野村の著書である「ああ、阪神タイガース」によると、減俸に不満を持ったため宣言をしたが単に獲得球団がなかっただけであり、そのため仕方なく残留したとのこと。野村は、礒部の宣言について自分で過大評価していると書いている。(礒部公一 フレッシュアイペディアより)
-
-