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鉄平 (野球)から見た西口文也
、開幕戦の日本ハム戦に「1番・中堅手」としてスタメン出場する。4月22日の西武戦で西口文也からプロ初本塁打を放つ。6月2日は古巣の中日戦(フルキャストスタジアム宮城)で4安打を放ちサヨナラ勝ちにつなげ、試合後、中日監督の落合博満から「お前を(トレードに)出した甲斐があった」とのコメントを受けた。6月30日の日本ハム戦から7月6日のロッテ戦にかけて9打席連続三振を記録。野手の連続三振記録の新記録となった。この年は103試合に外野手として出場し、チーム2位の打率.303を残す。また、西岡剛、赤田将吾、川崎宗則と並んでリーグトップタイの7三塁打を記録した。ファンからの最多投票を受け、楽天野球団主催の『2006年度MVP選手』に選ばれる。これにより、2007年度の同球団ファンクラブ特典のフィギュアは鉄平となった。11月、イオン日米野球2006に監督推薦選手として出場。スコアボードになぜか「東北鉄平」と誤表示されてしまうというハプニングもあった。12月7日、球団史上最高となる220%の年俸アップ率で契約更改をし「自費で新幹線に乗るときはいつも自由席だったけど、これからは座席が広いグリーン車に乗れそうです」とコメントした。また、この日「グッズを作り直すのが大変だろうから」と、背番号は変更しないことを発表した。(鉄平 (野球) フレッシュアイペディアより)
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鉄平 (野球)から見た山崎武司
、最高年俸だった礒部公一が大減俸となったため、楽天外野手最高年俸の選手となった。週刊ベースボールのインタビューで「今年の自分の鍵を握る最大のポイントは運ですね」とシーズンに臨む意気込みを語っている。3割5分を超える高打率を維持していた5月、「気持ち悪い」と体調不良を訴えて二軍降格。症状からメニエール病ではないかと心配されたものの検査したところ特に異常はなかったため、すぐ公式戦に復帰した。8月6日には球団新記録となる22試合連続安打を記録。同日は決勝打を含む3安打を放ち、打率トップに浮上する。最終的に連続試合安打の記録を24まで伸ばしている。また、この頃には4番を努める山崎武司と並ぶ不動の3番バッターとして活躍。8月の成績は打率.402、3本塁打、24打点で自身初の月間MVPを受賞。終盤やや打率を落としたものの、最後までトップの座を守り、初の打撃タイトルとなる首位打者を獲得した。打率.327、12本塁打、76打点、13盗塁は自己最多。前年左投手に.202と苦しんだがこの年は.314、7本塁打をマークした。更にシーズン記録では5位タイとなる両リーグ最多の13本の三塁打を放つなど飛躍のシーズンとなった。10月13日にはこの活躍により大分市民栄誉賞の進呈が発表された。同賞を贈られるのは同学年の内川聖一に次いで2人目。また、初となる外野手のベストナインに選出された。実は8月9日の対日本ハム戦で武田勝からボールを受けて(この時の判定はファウル)左手人差し指を骨折をしていたが、それでも試合に出続けていたことをオフの激励パーティーにて語った。(鉄平 (野球) フレッシュアイペディアより)
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鉄平 (野球)から見た中村紀洋
この年は聖澤諒がレギュラーに抜擢された影響によって右翼手にコンバートされた。シーズン前半は交流戦の巨人戦、阪神戦で自身初を含む2度のサヨナラ安打を打つ活躍を見せたが、前年と比べて打率が上がらずに苦戦。その影響で打順が固定されず、4番で出場した試合もあった。後半は前年に迫るほどに調子を上げ、9月12日のオリックス戦から9月14日の日ハム戦にかけて9打数連続安打(パ・リーグ2位タイ)を記録。しかしシーズン閉幕直前の9月18日のロッテ戦で小林宏から死球を受け右足小指を骨折(この時はそのまま走者として試合に出続け、中村紀洋のヒットによってサヨナラのホームを踏んだ)。後日即登録抹消されそのままシーズンを終える。打率は3割を超えたものの、得点圏打率は.271とやや不本意な成績だった。(鉄平 (野球) フレッシュアイペディアより)
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鉄平 (野球)から見た星野仙一
、新しく監督に就任した星野仙一から、山崎武司に代わる新キャプテンに指名され、キャンプでは左翼手にコンバートされたが、右翼手のレギュラー候補であった牧田明久が故障離脱したため右翼手に戻された。この年は新たに統一球が導入されたこともありスイングの修正に取り組んだが、本人が「すべてを失った」というほどの不振に陥った。シーズンに入ってからはまったく調子が上がらず、中盤はほとんどファームで過ごす事となった。91試合の出場で打率.228、1本塁打、17打点と楽天移籍後としては最低の成績となった。打撃はサッパリだったものの、守備では出場試合が少ないにもかかわらず、リーグ2位となる9個の補殺を記録した。(鉄平 (野球) フレッシュアイペディアより)