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鉄道模型から見た子供の科学
1924年創刊された『子供の科学』に本間清人が電気機関車の作り方、庭園鉄道のレイアウトなど模型製作記事を連載した。続いて山北藤一郎が電気機関車や電気関係の製作記事を連載した。そして子供の科学代理部(のちの科学教材社)によりモーター、車輪、レール、トランス等鉄道模型の部品の販売を開始し、さらに子供の科学展覧会を開催して鉄道模型の発展に貢献した。本間清人は『子供の科学』誌で「50mmゲージ」を提唱、これが日本における鉄道模型の標準軌間のさきがけとなった。この時代の縮尺であるが、発売された製品は足回りやパンタグラフは約1/40、連結器は1/20位で車体は各人の好みで1/21から1/30位と統一されていなかった。『科学画報』で「模範的電気機関車の作り方」を執筆した香西健は1/30・35mmゲージを採用。1927年日本橋三越で開催された子供の科学主催第一回模型の国展覧会でこの規格の電気機関車が最優等賞を獲得し注目を浴び、1929年に創刊された『鉄道 (雑誌)』はこのゲージを推進した。メーカーも追随して製品を発売するようになり、35mmゲージは戦前の日本の鉄道模型模型規格の主流となった。ミトイ会(35をもじった)という模型クラブがつくられ会場をかりてしばしば公開運転を行い。その様子がニュース映画に取り上げられていた。一方Oゲージ由来の32mmゲージを縮尺1/40-1/42で制作して楽しむ愛好者もいて、千代田計器工作所からは完成品も発売されていた。1938年『模型鉄道』誌上で湯山一郎が「模型鐵道の標準軌間」を発表した。この記事は、日本独自の道を行く35mmゲージと比べ軌間32mmのOゲージにすればアメリカ型もイギリス型も日本型も(縮尺は調整するが)同じ線路上に走らせることが出来るとしてOゲージの利点を説き、日本型の縮尺については1/45を推奨した。しかし35mmゲージ擁護派からの反発は両者の争いを生みそれは終戦まで続いた。また『科学と模型』に「16番ゲージ日本標準規格に就て」を発表した山崎喜陽も国賊非国民と攻撃をうけていた。(鉄道模型 フレッシュアイペディアより)