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東京興映から見た銀座
1966年(昭和41年)3月8日、元新東宝の監督であった小森白(1920年 - 2003年)が東京都中央区銀座東4丁目4番地(現在の銀座4丁目9番2号)の畜産会館(現在のソラリア西鉄ホテル銀座)に設立した。『日本映画発達史』の田中純一郎は、同書のなかで同社の設立を「1964年3月」としているが、これは同社の前身の製作会社小森白プロダクション(K.P.C.)の事業開始年月である。新東宝が1961年(昭和36年)8月31日に倒産した後、小森は新東宝前社長の大蔵貢の大蔵映画が製作した大作『太平洋戦争と姫ゆり部隊』に取り組み、同作は翌1962年(昭和37年)4月7日に大々的に公開されたものの、興行的には失敗した。(東京興映 フレッシュアイペディアより)
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岡田茂 (東映)から見た銀座
1980年に東京急行電鉄取締役と東急レクリエーション社長に就任し、東急グループと東映の冷え切った関係を修復した。赤坂東急ホテルで開かれた岡田の社長就任を祝う会では、東急グループの総帥・五島昇が人前を憚らず号泣した。岡田は同社の社長を1980年1月から1993年6月まで務め、以降2003年3月まで代表取締役会長、その後も2011年5月に亡くなるまで相談役として30年以上、同社の経営に関与した。東急レクリエーションは、渋谷・新宿を中心に都内一等地に大型の劇場チェーンを持つ興行会社で、社長・会長在任中に各劇場の再開発を行った。1987年、東急レクリエーションと東映の提携によるティ・アンド・ティ映画興行(Cinema T&T)を設立して有楽町センタービル(有楽町マリオン)に丸の内ルーブルをオープンさせ、念願の銀座地区進出を果たし、1987年4月に池袋とうきゅうビルを建設。この時、佐々木興業とチェーンを組んでいた丸の内ルーブル、ミラノ座、渋谷パンテオンを全て東急レクの直営館にした。他に1989年9月開業したBunkamura内にヘラルド・エースとコラボしてBunkamura ル・シネマを、1993年には多摩市の多摩カリヨン館に松竹第一興行とジョイントでビデオシアター・多摩カリヨンシアターを、同年本厚木のミロード2に厚木シネマミロード等をオープンさせた。丸の内ルーブルは天井に巨大なシャンデリアを設置するなど、アクション映画主体の同チェーンに女性層の動員を意識した番組編成を行う先駆けとなった。他の劇場も椅子のデラックス化や絨毯の張り替えなど、劇場への再投資を積極的に行い、岡田社長就任時に同社は大きく業績を伸ばした。『E.T.』や『愛と青春の旅立ち』『戦場のメリークリスマス』『007 オクトパシー』『フラッシュダンス』『探偵物語』『時をかける少女』などのヒット作が続出した1983年12月期には、前年対比52%増と創業以来最高の成績を挙げ、売上高176億5000万円と、一興行会社としては空前の成績を残した。これは従来新宿に集まっていた若者が東急レクリエーションの本拠地である渋谷に移動し、渋谷地域のステータスが上がってきたという背景もあった。(岡田茂 (東映) フレッシュアイペディアより)
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ちい散歩から見た銀座
同局では地井の回復・復帰を待って、特別番組『ちい散歩スペシャル』として制作・放送することを目指していた。番組終了から8週間後の6月29日、地井は心不全により逝去(享年70)。翌6月30日には追悼番組として『ちい散歩 ありがとう!地井さん 6年間 3,227,000歩の軌跡』が放送された。また7月10日 - 16日の1週間、銀座三越にて、地井が番組で描いた絵手紙563枚 を展示した『ちい散歩 地井さんが描いた563枚の絵手紙展』が開催された。また8月6日には東京・青山葬儀所にて地井の「お別れの会」が開催され、番組共演者(ラッシャー板前、生稲晃子ら) など、延べ2300人が地井に最後の別れをした。地井の遺影は2009年4月13日放送「新宿御苑」編の撮影時に桜をバックに撮影したものを使用。また8月11日には地井の追悼特別番組も放送された。(ちい散歩 フレッシュアイペディアより)
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