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京阪神から見た阪神間モダニズム
明治時代は幕末の開国により外国人居留地がおかれた神戸が国際貿易港として発展し、同じく川口居留地がおかれた大阪、そして京都も次第に都市の近代化が進んでいった。「天下の台所」と呼ばれた経済都市の大阪は健在であったが、江戸期以来参勤交代で富裕層の集住に成功して大消費地となった江戸が、東京府となって中央集権体制を確立し、税と外貿で富を更に集めるようになった。しかし1894年に勃発した日清戦争を契機に、大阪は「東洋のマンチェスター」と呼ばれる日本最大の商工業都市に発展し、神戸は東洋最大の港湾都市へ飛躍するなど、再び日本における文化・経済の中心地となった(阪神間モダニズムも参照)。さらに1923年の関東大震災後には関東からの移住者が多数あり、文化・経済の更なる興隆を見た。(京阪神 フレッシュアイペディアより)
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関東大震災から見た阪神間モダニズム
なおこの震災により東京市から郊外に移り住む者も多く、「天災によるドーナツ化現象」が発生した(参照)。40年近く後の高度経済成長期に三大都市圏の中心となる大阪府や愛知県等に移住する者も多くみられ、特に大阪市は東京市を超え、世界第6位の人口を擁する都市に躍進した。阪神間では阪神間モダニズム後期の大大阪時代を迎え、六大都市の序列に影響を与えた。また東京市電の機能不全を肩代わりさせるため東京市がT型フォードを約800台輸入してバス事業を開始(円太郎バス)。すると、全国にバス事業が広まるとともに、輸入トラックを利用した貨物輸送も始まって、旅客および物流におけるモータリゼーションが到来した。電話の自動交換機も普及した。(関東大震災 フレッシュアイペディアより)
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阪神121形電車から見た阪神間モダニズム
武庫川の支流であった枝川、申川の廃川敷を開発した甲子園は、住宅地をはじめ阪神甲子園球場や阪神パークなど、阪神が力を入れて開発に取り組んだ地域であるとともに、当時は遠浅の海岸で阪神間でも有名な海水浴場であったほか、西宮七園のひとつとして阪神間モダニズムの主要な舞台でもあった。その甲子園を南北に貫く形で建設された甲子園線は、住宅地と鉄道駅を結ぶ路線であるとともに、シティリゾートへの観光客を運ぶ路線でもあった。1936年に阪神パークと中津浜、六甲山植物園の3ヶ所を会場とした「輝く日本博覧会」が開催された際、博覧会のPRと納涼観光を目的とした電車を登場させることとなり、手持ち資材を有効活用して121形を製造した。(阪神121形電車 フレッシュアイペディアより)