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クラブコスメチックスから見た阪神間モダニズム
1922年(大正11年)、小山内薫を顧問に迎え、化粧品宣伝のためのハウスオーガン(PR誌)を編集発行するために広告社・出版社「プラトン社」を併設し、中山の実弟中山豊三がその経営に当たった。アール・デコ調の装丁で豪華な執筆陣を抱えた女性文芸誌『女性』を同年創刊、翌1923年(大正12年)の暮れには、文芸雑誌『苦楽』を創刊した。これらの雑誌はPR誌の域を超えた総合文芸誌となって阪神間モダニズムと呼ばれる文化を生み出し、1925年(大正14年)11月末に東京の大日本雄辯會講談社(現講談社)が創刊した大衆娯楽雑誌『キング』(大正15年1月1日付発行)と大いに争ったが、1928年(昭和3年)にプラトン社は廃業した。1924年(大正13年)には創業20周年を記念し、大阪の堂島ビルヂングと東京の丸の内ビルディング内に中山文化研究所を設立した。(クラブコスメチックス フレッシュアイペディアより)
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旧辰馬喜十郎住宅から見た阪神間モダニズム
明治中期ごろから、阪神間では近代的な芸術・文化・生活様式が育まれ、阪神間モダニズムが形成されたが、その過程で灘の酒造家をはじめてとする、阪神間の実業家が、この地域に与えた影響は大きく、洋館建の邸宅や酒造工場、酒蔵を残した他、美術館・博物館・学校を創設するなど地域文化に大きな貢献を果たした。この邸宅は辰馬財閥・辰馬本家の分家である、南辰馬家当主、辰馬喜十郎(十代目当主・辰馬吉左衛門の四男)が自邸を新築するにあたって、日本人大工、山下某に神戸旧居留地の英国領事館を模すように命じたと伝わる明治21年築の擬洋風建築である。木造総2階建の母屋(外壁2面は煉瓦積)と木造平屋建の附属屋で構成される。列柱を配したベランダや両開き鎧戸など北野町異人館群と同様のコロニアルスタイル建築の特徴を有す。(旧辰馬喜十郎住宅 フレッシュアイペディアより)