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西川周作から見た阿部勇樹
2016年、AFCチャンピオンズリーグ決勝トーナメント1回戦のFCソウル戦にて、ソウルでの2ndレグは、U-23日本代表のキャプテンでもある遠藤航のミスに泣いて失点を喫して以降は90分決着で1-1。延長戦でも相手の攻撃を止められずに最後は高余韓のミドルシュートも手に当てながらセーブしきれずに3失点。延長戦でも3-3と決着がつかず、PK戦に突入。レッズが阿部勇樹、遠藤、ズラタン、森脇良太と全員成功したのに対し、FCソウルは1人外して4-3。5人目が決めれば準々決勝進出に繋がる場面で「4人目でも5人目でも大丈夫だ」と名乗りを上げたもののチームの勝敗全ての責任を背負う重要な局面でまさかの失敗。(西川周作 フレッシュアイペディアより)
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原口元気から見た阿部勇樹
2009年1月30日に浦和とプロ契約を締結。これは日本人でクラブ史上最年少である(エスクデロ・セルヒオは17歳ちょうどで契約したが、その時はまだ日本に帰化前)。2009年シーズンは、開幕戦の3月7日対鹿島アントラーズ戦でスタメンを飾りJリーグ初出場を果たすと、4月12日第5節名古屋グランパスエイト戦において、負傷した田中達也と交代で途中出場。クラブ日本人最年少ゴール(17歳11ヶ月3日)を決めた。その後、田中や梅崎司を怪我で欠くチーム事情もあり、スタメンに定着し、チーム2位となる32試合に出場した(1位は、全34試合に出場した阿部勇樹)。4月27日にはリーグ史上4番目の若さ(森本貴幸、阿部勇樹、稲本潤一に次ぐ)でA契約を結んだ。推定年俸は700万円。(原口元気 フレッシュアイペディアより)
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三浦知良から見た阿部勇樹
2006年2月からは横浜FCの選手兼任の監督補佐に就任するが、登録上は選手扱いである(Jリーグの規定では選手が監督・コーチを兼任することが出来ない)。このシーズン、39試合に出場し6得点、横浜FCのJ1初昇格に貢献した。2007年はシーズン全34試合中24試合に出場。9月15日のサンフレッチェ広島戦で日本人選手史上最年長ゴールを記録するなどシーズンで3得点を挙げた。12月1日の最終戦浦和レッズとの試合では、引き分けか、負ければ浦和の優勝が決まるという大一番で、阿部勇樹を左サイドで抜き去り、その後のセンタリングから根占真伍の決勝点をアシストして浦和の優勝を阻んだ。なお、横浜FCはこの試合の前にJ1最下位でJ2降格が決まっていた。(三浦知良 フレッシュアイペディアより)
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レスター・シティFCから見た阿部勇樹
2010年、経営難に陥った事から、タイの資本家が経営権を取得。以後、阿部勇樹や岡崎慎司などアジア人の獲得に積極的になっていく。(レスター・シティFC フレッシュアイペディアより)
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柏木陽介から見た阿部勇樹
2010年1月9日、埼玉スタジアムで浦和への加入記者会見が開かれた。背番号はかつて浦和に大きな貢献をもたらした広瀬治、小野伸二、アレックスといった選手達が付けていた8に決定した。シーズン開幕直後は不慣れなサイドでの起用、本職のトップ下に入っても周りの選手との連携や広島と浦和のサッカースタイルの違いに苦しみ、なかなか本領を発揮することが出来ずにいた。しかし、8月末に阿部勇樹が退団した影響もあって手薄になったボランチで起用されるようになってからは得点に絡む場面が増えるなど徐々に本領を発揮出来るようになっていった。浦和移籍後初得点は5月5日のJ1第10節名古屋グランパス戦の後半3分に記録した。最終的にこのシーズンは公式戦全試合出場したエジミウソンに次ぐ、公式戦43試合に出場した。(柏木陽介 フレッシュアイペディアより)