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  • 水野忠友

    水野忠友から見た駿河国駿河国

    水野 忠友(みずの ただとも)は、江戸時代中期の旗本、のち大名、老中。三河大浜藩主、駿河沼津藩初代藩主。沼津藩水野家8代。水野忠友 フレッシュアイペディアより)

  • 静岡県の地域

    静岡県の地域から見た駿河国駿河国

    西部、中部に加えて、前述の東部をさらに東部(富士川以東の旧駿河国)と伊豆(旧伊豆国)に分割した地域区分である。天気予報がこの区分で発表されることから、県民には馴染み深いものになっている。ただし、伊豆に含まれるエリアの最大の都市の三島市は天気予報では東部として扱われている。2005年4月の田方郡戸田村の沼津市への合併によって旧戸田村は天気予報で伊豆から東部となった。また、2004年4月榛原郡御前崎町と小笠郡浜岡町が合併したことによる御前崎市の成立で、旧御前崎町は中部から西部となった(御前崎が西部となったため強風波浪注意報が中部に出やすかったのが、西部に出やすくなった)。また、2008年11月の富士川町の富士市への合併によって旧富士川町は中部から東部となった。静岡県の地域 フレッシュアイペディアより)

  • 足利直義

    足利直義から見た駿河国駿河国

    同年、後醍醐天皇に無断で来援した尊氏と合流すると東海道を東へ攻勢に転じ、反乱軍から鎌倉を奪還する。奪還後も鎌倉に留まった尊氏は付き従った将士に独自に論功行賞などを行うが、これは直義の強い意向が反映されたとされている。しかし、建武政権から尊氏追討令が出、新田義貞を大将軍とする追討軍が派遣されるや、尊氏は赦免を求めて隠棲する。直義らは駿河国手越河原(静岡県静岡市駿河区)で義貞を迎撃するが敗北する(手越河原の戦い)。これに危機感を持った尊氏が出馬すると、これに合して箱根・竹ノ下の戦いで追討軍を破って京都へ進撃する。足利軍は入京したものの、延元元年/建武3年(1336年)に陸奥国から上洛した北畠顕家や楠木正成、新田義貞との京都市街戦に敗れる。再入京を目指すも、またしても摂津国豊島河原での戦いに敗れて九州へと西走する(豊島河原の戦い)。道中の備後国にて光厳上皇の院宣を得て、多々良浜の戦いで建武政権側の菊池武敏に苦戦を強いられながらもこれを撃破するなど、西国の武士の支持を集めて態勢を立て直して東上を開始。海路の尊氏軍と陸路の直義軍に分かれて進み、湊川の戦い(兵庫県神戸市)で新田・楠木軍を破って再び入京する。足利直義 フレッシュアイペディアより)

  • 阿倍祖足

    阿倍祖足から見た駿河国駿河国

    宝亀11年(780年)従五位下・左衛士員外佐に叙任される。天応元年(781年)主馬助に遷るが、翌天応2年(782年)駿河守に任ぜられ地方官に転じた。阿倍祖足 フレッシュアイペディアより)

  • 吉美侯部

    吉美侯部から見た駿河国駿河国

    『六国史』(『類聚国史』の補分を含む)には吉弥侯部や吉弥侯を氏とする人物の記述が時折見られる。『続日本紀』では公民や官人としての君子氏や君子部氏、吉弥侯部氏、吉弥侯氏が記載されているが、類聚国史の「俘囚」の項には多くの吉弥侯部氏や吉弥侯氏が俘囚として記録されており、『続日本後紀』以降では俘囚以外にも賊首や賊主としての吉弥侯部氏、吉弥侯氏の記録がある。これら六国史の実際の記載としては「陸奥国俘囚」「陸奥国賊首」「出羽国俘囚」「常陸国俘囚」「甲斐国俘囚」「甲斐国賊主」「越中国俘囚」「摂津国俘囚」「播磨国俘囚」「伊予国俘囚」「安芸国俘囚長」「因幡国俘囚」「出雲国俘囚」「豊前国俘囚」「豊後国俘囚」とされているが、その殆どは何らかの功を挙げ位階を賜った記事となっている。これらの人物の中には、尾張国、駿河国、阿波国へ移配された者もあった。吉美侯部 フレッシュアイペディアより)

  • 山田春城

    山田春城から見た駿河国駿河国

    文徳朝に入り、仁寿元年(851年)の大嘗会にて外従五位下に叙せられる。仁寿2年(852年)駿河介に遙任で任ぜられるが、翌仁寿2年(853年)には敢えて希望して同国へ赴任する。ある時、阿気大神という新しい神を伊豆国から駿河国駿河郡に移し、新たに社を建てて祭祀を行ったが、しばらくすると禰宜や祝が奇異なことを言って国司や民衆を惑わすようになった。そこへ、春城が赴任するとすぐに禰宜や祝の誤りや偽りを糺したところ、それ以降は妖言が全く起こらなくなった。当初部下や民衆は春城の清察を嫌っていたが、このことがあって以降は受け入れるようになったという。山田春城 フレッシュアイペディアより)

  • 山梨稲川

    山梨稲川から見た駿河国駿河国

    度々江戸に出て学問、交遊を深めながら、生涯駿河国に居を構えて漢詩や字の研究に没頭した。荻生徂徠に始まる古文辞学派陰山豊洲に師事した。江戸後期には宋詩が流行を見たが、稲川は蘐園の末流として文は秦漢、詩は盛唐を模範とした。古文辞学とは字の研究を通じて儒教経典を解釈する学問であったが、稲川は殊に漢字・音韻の研究に進んだ。山梨稲川 フレッシュアイペディアより)

  • 早川殿

    早川殿から見た駿河国駿河国

    早川殿/早河殿(はやかわどの、生年不詳 - 慶長18年2月15日(1613年4月5日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。相模国の戦国大名北条氏康の娘。甲相駿三国同盟の一環として、駿河国の戦国大名今川氏真の室となった。早川殿 フレッシュアイペディアより)

  • 後北条氏

    後北条氏から見た駿河国駿河国

    室町幕府の御家人・伊勢氏の一族だった伊勢新九郎盛時(後の早雲庵宗瑞)が文明8年(1476年)の今川義忠(盛時の姉北川殿が義忠に嫁いでいた)の戦死をきっかけにして起こった今川氏の内紛の際に甥の龍王丸(後の今川氏親)を支援したことが伊勢氏(北条氏)が関東圏に勢力を築くきっかけとなった。後世成立の軍伝等では、この功績により氏親から駿河国興国寺城が与えられたことになっている。明応2年(1493年)、幕府の管領・細川政元による足利義澄の将軍擁立と連動して、伊豆国に侵入し、堀越公方の子、足利茶々丸を新将軍の母と弟の仇として討つという大義名分のもとに滅ぼし、以後積極的に伊豆国を攻略して所領としたと伝えられている。明応4年(1495年)には大森氏から小田原城を奪って本拠地を移し、1516年に三浦半島の新井城で三浦義同を滅ぼして、相模国全土を征服した。北条氏を称したのはこの宗瑞の子・氏綱が名字を伊勢から北条に改めてからのことだが、今日では便宜上、早雲庵伊勢宗瑞に遡ってこれを「北条早雲」と呼んでいる。後北条氏 フレッシュアイペディアより)

  • 糟屋武則

    糟屋武則から見た駿河国駿河国

    また『寛政重修諸家譜』は異なる系図を示して、武則は、糟屋忠安(兵庫助)の4男の数政(かずまさ)であるとし、弟相喜の子政忠が旗本となって存続したとしているが、これらは駿河国や遠江国の人物であり、糟屋氏の経歴とは辻褄が合わず、関連は疑わしい。糟屋武則 フレッシュアイペディアより)

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