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淡海三船から見た駿河国
淳仁朝では、尾張介・山陰道巡察使を経て、天平宝字5年(761年)従五位下・駿河守に叙任されるなど、地方官を歴任する。天平宝字6年(762年)文部少輔。天平宝字8年(764年)8月に美作守に任ぜられ再び地方官に転じる。同年9月に発生した恵美押勝の乱の際に、藤原仲麻呂が宇治から近江国へ逃れ各地に使者を派遣して兵馬の調達をしていたところ、造池使としてため池を造成するために近江国勢多にいた三船は造池使判官・佐伯三野とともに仲麻呂の使者とその一味を捕縛するなど、孝謙上皇側に加勢して活動する。乱後、三船は功労によって三階昇進して正五位上へ昇叙と勲三等の叙勲を受け、近江介に任ぜられた。また、天平神護2年(766年)になってから、功田20町を与えられている。(淡海三船 フレッシュアイペディアより)
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