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バンザイ突撃から見た食品
この様な「無降伏主義」は日本軍のみに見られた事では無く、他でも見られた。ドイツ国防軍では、第二次大戦の初期においては捕虜となった将兵やその家族が不利益を被ることは少なかったとされるが、スターリングラード攻防戦において、フリードリヒ・パウルス元帥指揮下の第6軍は、絶望的な状況でも撤退も降伏の許可も与えられず、壊滅の憂き目に遭っている。イギリス軍でもシンガポールの戦いにおいてアーサー・パーシバル将軍指揮下の守備軍はチャーチル首相の死守命令によって降伏を禁ぜられるなど、無降伏主義と無縁ではなかった(ただし、前二者の事例では指揮官が死守命令にそむいて降伏しており、同時代の日本軍では通例であった玉砕にまでは至っていない)。ソビエト連邦(ソ連国防人民委員令第227号)や中華民国(軍刑法である戦時軍律第六條は敵に降参するものは死刑に処すと定めていた)などは日本と同様な無降伏主義をとっており、投降兵が自軍に復帰した場合に処刑したり、投降兵の家族に対しては食糧配給差し止め、国外追放や強制収容所送致などの不利益処分が行われていた。(バンザイ突撃 フレッシュアイペディアより)
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カリヨンの戦いから見た食糧
フランス軍は、1757年のウィリアム・ヘンリー砦の戦いではここを拠点として成功を収めた。1757年のこの勝利、そして、他の北アメリカの戦いでも勝利したにもかかわらず、翌年にかけて、フランスは絶好調とは言えなかった。この年、北アメリカ駐留フランス軍の、最高責任者であるルイ=ジョゼフ・ド・モンカルムと、ヌーベルフランス総督のピエール・フランソワ・ド・リゴー(ヴォードルイユ)は、3月になってからやっと、イギリスが大軍を北アメリカに派遣しようと計画していること、フランス国王ルイ15世の支援が、どちらかと言えば少なめであることを知らされた。本国からの支援が少ないのは、イギリス海軍が抑えている大西洋に、フランスが主要戦力を使って作戦に出る覚悟が、さほどにないことを意味していた。また、カナダの農作物の不作が、これにさらに追い打ちをかけた。冬が進むに連れ、食糧の蓄えが乏しくなると言う結果を招いた。(カリヨンの戦い フレッシュアイペディアより)
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