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食事から見た合
フランシスコ・ザビエルが1549年頃に書いた報告書には「日本人は1日に食事を3回する」と書かれている。戦国期当時、戦場で1日3食だったことは、支給されていた米の量からもわかり、30日間は、食料は自己負担だが、30日を過ぎ、長期戦となると、軍=大名からの支給制へと移り、米は1日1人6合(約900グラム)支給されていた。つまり1食辺り米2合(約300グラム)ということになる(米だけで1日のカロリーが3204kcalになる上、塩なども支給されていた)。さらに夜戦では増配された。加えて、江戸時代に庶民が1日3食を取るようになったのは元禄年間(17世紀末)からとされる。また牢中の囚人に対する食事の回数は身分によって違い、江戸市中小伝馬町牢屋敷では、庶民は朝夕の2回に対し、武士は朝昼夕の3回で、罪人であっても地位によって待遇に差があった。17世紀の日本において3食化が広まった理由として、「照明が明るくなった町の商舗経営の長時間化が刺激になった」とも考えられており、身分・職種(力士など)によっては2食が残った。庶民3食化のきっかけとしては、「明暦の大火(17世紀中頃)後の復旧工事に駆り出された職人に昼食を出したところ、広まった」ともいわれている。他にも1日3食を記録した例として、幕末の忍藩下級藩士が記した絵日記である『石城日記』があり、朝昼夕とその日に食した内容が細かく記述されている(日付によっては、3食とも茶漬けとある)。なお『石城日記』では昼食を「午飯」と記している。(食事 フレッシュアイペディアより)
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食事から見た個食
かつて日本の家庭でも、畳の居間の食卓で家族揃って一緒にとるという形態が、ひとつの典型的な像としてあった。それが昭和期には洋風のリビングルームやリビング・ダイニングなどにある食卓で椅子にすわって家族一緒にとるという形態に変化したが、最近では一応食卓はあるものの、朝食であれ昼であれ夕食であれ、家族が揃ってとることはむしろ稀になってきているというデータがある。家族がバラバラになってきてしまっているのである。近年の日本では一般論として言えば孤食化が進んでいるとされている。ただし生徒・学生らは昼食は学校の教室で同級生らと一緒に給食を食べたり、あるいは持参のお弁当を食べたり、校内の食堂やカフェテリアでとっている。日本のサラリーマンらは昼食は一般の飲食店や社内の社員食堂でとったり、持参した弁当やコンビニで買い求めたおにぎり・パン・弁当などをオフィスでとったりしており、同僚ととっている場合もあれば独りでとっている場合もある。(食事 フレッシュアイペディアより)
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食事から見た大名
フランシスコ・ザビエルが1549年頃に書いた報告書には「日本人は1日に食事を3回する」と書かれている。戦国期当時、戦場で1日3食だったことは、支給されていた米の量からもわかり、30日間は、食料は自己負担だが、30日を過ぎ、長期戦となると、軍=大名からの支給制へと移り、米は1日1人6合(約900グラム)支給されていた。つまり1食辺り米2合(約300グラム)ということになる(米だけで1日のカロリーが3204kcalになる上、塩なども支給されていた)。さらに夜戦では増配された。加えて、江戸時代に庶民が1日3食を取るようになったのは元禄年間(17世紀末)からとされる。また牢中の囚人に対する食事の回数は身分によって違い、江戸市中小伝馬町牢屋敷では、庶民は朝夕の2回に対し、武士は朝昼夕の3回で、罪人であっても地位によって待遇に差があった。17世紀の日本において3食化が広まった理由として、「照明が明るくなった町の商舗経営の長時間化が刺激になった」とも考えられており、身分・職種(力士など)によっては2食が残った。庶民3食化のきっかけとしては、「明暦の大火(17世紀中頃)後の復旧工事に駆り出された職人に昼食を出したところ、広まった」ともいわれている。他にも1日3食を記録した例として、幕末の忍藩下級藩士が記した絵日記である『石城日記』があり、朝昼夕とその日に食した内容が細かく記述されている(日付によっては、3食とも茶漬けとある)。なお『石城日記』では昼食を「午飯」と記している。(食事 フレッシュアイペディアより)
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