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クロアチアの歴史から見たベオグラード
1918年12月1日、セルビア王国摂政アレクサンダル・カラジョルジェヴィッチは南スラブ人単一国家「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(1929年にユーゴスラビア王国へ改名、以下ユーゴスラビア王国と記述する)」 の樹立を宣言、クロアチアは「コルフ宣言」に従い、スロベニア、ダルマチア、ボスニア・ヘルツェゴビナらと共にこれに取り込まれることとなり、ベオグラードを首都とする南スラブ民族による統一国家が形成された。しかしこの内、スロベニア人、クロアチア人らが住む領域はイタリアが領有権を主張していたため、国境線画定の際、問題を生じることとなった。これはイタリアが、ダルマチア及び、南スラブ人の居住区の大部分を与えるという約束がなされたロンドン条約に基いて参戦したためであった。結局、1920年11月12日に結ばれた「ラパルロ条約」と1924年1月27日に結ばれたイタリア・ユーゴスラビア友好条約により、イタリアにはイストリア、フィウメ、ツァーラ、トリエステが譲られる事となった。(クロアチアの歴史 フレッシュアイペディアより)
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ドナウ川から見たベオグラード
ハンガリーを抜けると、クロアチアとセルビア(ヴォイヴォディナ自治州)の国境をなす。ここで西から流れてきたドラーヴァ川をあわせ、ヴコヴァルで流れを再び大きく東西に変えたのちにセルビア国内に入る。ヴォイヴォディナの州都であるノヴィ・サドを通ったのち、セルビアの首都ベオグラードでスロベニアから流れてきたサヴァ川を合わせる。ハンガリーから続く平原地帯はベオグラードのやや下流で終わり、やがてセルビアとルーマニアの国境となる。ここはドナウ川がカルパティア山脈を越える地点であり、その部分には急流で知られる鉄門がある。ここは長い間難所として知られてきたが、現在ではダムの建設によって水位が上がり、穏やかな流れとなっている。また、鉄門ダムには3つの水力発電所が建設され、合計240万kWの電力を生み出している。ここまでがドナウの中流域である。(ドナウ川 フレッシュアイペディアより)
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ユーロビジョン・ソング・コンテスト2011から見たベオグラード
従来のルールでは、「Big 4」の4か国と主催国は準決勝を免除され、自動的に決勝に進むこととされていた。2011年大会では、ドイツは「Big 4」の一員であり主催国でもあるため、決勝に参加する国の数がひとつ減る可能性が生じた。ベオグラードで開かれた会合では、従来のルールをそのまま踏襲し、結果として決勝に参加する国は25か国(準決勝からの20か国、「Big 4」、主催国)から24か国となるとされた。2010年12月31日、参加申請を受け付けられた国々の一覧が公表され、1997年以来の参加となるイタリアを、従来の「Big 4」に加えて「Big 5」とすることが明らかにされた。これにより、2011年大会で準決勝参加を免除されるのはドイツ、フランス、スペイン、イタリア、イギリスの5か国であり、決勝は25か国で行われることとなった。(ユーロビジョン・ソング・コンテスト2011 フレッシュアイペディアより)
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パルチザン (ユーゴスラビア)から見たベオグラード
連合国による航空支援や赤軍による支援もあり、ウジツェ共和国の失敗以降目立って戦闘のなかったセルビアでも、1944年の後半にはパルティザンが支持を集めるようになった。1944年10月20日にはパルティザンと赤軍の共同によるベオグラード攻勢(Belgrade Offensive)によって、ベオグラードが解放された。(パルチザン (ユーゴスラビア) フレッシュアイペディアより)