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八原博通から見た首里城
沖縄戦では、司令官牛島満中将をよく補佐し、持久戦術を提案した。当初は、航空支援下での水際撃滅戦を主眼としていたが、大本営の誤った敵情判断による防衛戦略の見直しにより、1個師団を台湾に引き抜かれる事態に及んでいたこともあり、持久戦への方針転換がもっとも堅実な作戦であった。八原は、ただ兵力不足のため持久戦を提案したのではなく、地道な持久戦で長期間米兵に出血を強いることにより、アメリカ世論を操作し、日本の立場を有利にする考えがあったという。しかし八原戦略は表面的な武勇を尊ぶ当時の日本軍に理解されず、大本営からの攻撃の催促と長勇参謀長の直情的な思考により、米軍上陸後、約1週間で無謀な夜間突撃に切換えられた。八原の想定どおり前線の兵力は大損害を被り、砲兵部隊の弾薬は大半を使い果たしてしまう。嘉数高地の防衛戦、首里城攻防戦では、苦境のなかで善戦するが、損耗が激しく、雨天を利用して摩文仁高地に撤退した。ここでの持久戦によりアメリカ軍司令官サイモン・B・バックナー・ジュニア(:en:Simon Bolivar Buckner, Jr.)中将の狙撃に成功し戦死させている。バックナー中将の戦死は、アメリカ軍史上、司令官クラスの初の戦死者であり、アメリカ国内世論を騒然とさせた。『沖縄決戦 - 高級参謀 の手記』中で八原は第九師団が引き抜かれず、自分が想定したような徹底した持久戦をおこなっておれば、終戦の日まで首里で持ちこたえることが可能で牛島司令官も死なずに済んだのではないかと回想している。(八原博通 フレッシュアイペディアより)
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