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東氏津波古殿内から見た首里城
津波古殿内(津波古家)は公文書作成や法律案、英語通訳、侍講など学識深い知識人が多い。「牧志恩河事件」では、玉川王子朝達(尚灝王七男・尚慎)も拷問にかけられるところを、津波古親方政正は、風説をもとに高官を落とし入れるのに反対、王母に訴えて刑を免れさせた。1879年の琉球処分による置県時に、開化党と頑固党が対立したおり、津波古親方政正は中立穏健な姿勢を取り、尚泰王は少なからず感化を受けた。一世の東風平親方政真が宅地を賜った場所は、崎山御嶽の隣という。御嶽の地所にはもと崎山里主が居住し、ここから高麗瓦が出土。首里城からも同じ年代の高麗瓦が出ており、察度王時代の物という。崎山里主は波上宮を創建、察度王の子という伝えと東氏の元祖という口碑がある。沖縄県那覇市首里崎山町の崎山御嶽がある崎山公園には、「東姓拝所」と刻まれた石碑が現在も残されている。(東氏津波古殿内 フレッシュアイペディアより)
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琉米修好条約から見た首里城
1853年5月26日(咸豊3年4月19日)、マシュー・ペリーがサスケハナ号他3隻を率いて初めて那覇港に来航、5月28日(4月21日)にペリーは総理官摩文仁按司尚大模と初めて会見。6月6日(4月30日)首里城を訪問、首里城北殿にて総理官などと会見(この責任をとって尚大模は総理官を辞任している)。さらに6月8日(5月2日)にペリーは国王等に品物を贈り、6月9日(5月3日)ペリーはミシシッピ号を残して小笠原諸島に出航した。6月18日(5月12日)小笠原諸島から那覇に帰港したペリーは艦隊への資材の供給を終えると7月2日(5月26日)サプライ号を那覇港に残して軍艦4隻を率いて浦賀にむけて出航した(このとき浦賀に向かった4隻とは別にキプライス号は上海に向かった)。その後、7月25日(6月20日)大統領の親書を江戸幕府に渡したペリーは浦賀から帰港、資材の供給し、琉球側に聖現寺の一年間の賃貸及びその協定、約5、600トンの炭を貯蔵できる施設の建設及びその施設の妥当な金額での貸与、偵吏の追跡を禁止、市場を設け交易を自由とすることの4か条の要求しこれを承諾させ8月1日(6月27日)香港に向けて出航した。(琉米修好条約 フレッシュアイペディアより)
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