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  • 岡田茂 (東映)

    岡田茂 (東映)から見た高倉健高倉健

    ギャングシリーズを開拓したものの「そもそも日本にギャングなどいない」と、東映を『時代劇』路線から俊藤浩滋と組んで『人生劇場 飛車角』を初めとする任侠映画路線に転換させる。日活、大映、東宝など他社も追随した。他社はテレビに食われて生き詰まってしまったが、“任侠路線”だけは、テレビに食われることもなく、当たりに当たった。それに合わせるように、岡田は新たに土曜深夜のオールナイト興行という上映方式を組み、これに観客が押し寄せ、任侠映画は70年安保に向けて学生運動の盛り上がりとともに、高度経済成長・管理社会に疎外感を抱く学生やサラリーマンを中心に熱狂的ブームを起こした。東宝、松竹は戦前から不動産を持っていたので、生きのびることが出来たが、戦後派で不動産もない東映が勢いを増したのは岡田の切り替え戦略によるもの。任侠映画と後に手掛ける実録ヤクザ映画抜きに1960年代から1970年代の日本映画は語れない。岡田の仕掛けた“任侠路線”〜“実録路線”は、その後『日本の首領』や、『鬼龍院花子の生涯』などの「女性文芸路線」、『極道の妻たち』シリーズに、先の“現代アクション”“ハードアクション路線”は、『キイハンター』『Gメン'75』や、『ビー・バップ・ハイスクール』や『極道渡世の素敵な面々』などの“ネオやくざ路線”に引き継がれ、後にVシネマという新ジャンルを切り開いていった。岡田は企画、製作のみに手腕を発揮したのではなく、その過程に於いて、宣伝面を考慮した側面においても抜群の力量を発揮した。特に1960年代、1970年代の『人生劇場 飛車角』『緋牡丹博徒』『大奥物語』など、任侠映画、東映ポルノ/エログロ映画のタイトルの大半は岡田が考えたものである。『大奥物語』の○の中に秘を書くマークは、今は一般的に使われるが、これも岡田が考えたもので、この影響を受けて、当時の新聞や週刊誌では「物語」という活字を多用した。「今ではどこの企業でも部外秘の書類にというハンコを押しているのだから、著作料をもらいたいぐらい」と話している。禁断の園には誰でも興味が沸くだろう、と考えたのが製作の切っ掛けだが山田五十鈴、佐久間良子、藤純子らスター女優を起用して大当たりした。『大奥物語』はブームを呼び、その後の大奥物は、この作品の衣装や小道具がモデルになり、エッセンスは受け継がれ、現在もテレビドラマ等に繋がる。1964年の『二匹の牝犬』では文学座の小川眞由美と六本木で遊んでいた緑魔子を組ませた。同年中島貞夫に命じて撮らせた『くの一忍法』は、山田風太郎原作の『くノ一忍法帖』最初の映像化。東宝から引き抜いて以来パッとしなかった鶴田浩二を『人生劇場 飛車角』で、燻っていた高倉健を『日本侠客伝』『網走番外地』で、若山富三郎を『極道』シリーズで、そして『不良番長』シリーズで梅宮辰夫を売り出す。筋金入りの清純派、佐久間良子の裸のシーンを売り物に田坂具隆監督で『五番町夕霧楼』を大ヒットさせた。本作は京の廓の内情を初めて公にした作品として話題を呼んだ。内田吐夢監督に撮らせた『飢餓海峡』(1965年)も岡田の企画。岡田茂 (東映) フレッシュアイペディアより)

  • 網走番外地 (東映)

    網走番外地 (東映)から見た高倉健高倉健

    『網走番外地』 (あばしりばんがいち)は1965年4月18日、東映の製作・配給により劇場公開された刑務所映画。主演高倉健。監督石井輝男。東映。公開時の併映は鶴田浩二主演の 『関東流れ者』。シネマスコープ。モノクロ92分。網走番外地 (東映) フレッシュアイペディアより)

  • 山川雅生

    山川雅生から見た高倉健高倉健

    1993年(平成5年) - 映画「ミスター・ベースボール 」の記者会見で、初めて高倉健に会う。山川雅生 フレッシュアイペディアより)

  • 緋牡丹博徒シリーズ

    緋牡丹博徒シリーズから見た高倉健高倉健

    鶴田浩二、高倉健と並ぶ女任侠スターである藤純子(富司純子、以下、藤)の人気を不動のものにした任侠シリーズで、全国の仁侠映画ファンから喝采で迎えられて大ヒットした。1968年の第一作『緋牡丹博徒』から藤の結婚引退直前の1972年『緋牡丹博徒 仁義通します』まで全八作が製作された。緋牡丹の刺青を背負った女ヤクザ"緋牡丹のお竜"が、女ながら義理と人情のしがらみの中に生き、不正には身を持って立ち向かっていくというのがパターン。毎回手を変え品を変えて、或いは仁侠映画づくりの秘術を尽くして、お竜・藤純子の魅力を咲き乱させる。第一作製作時22歳だった藤のきりっとした中にも女らしさを秘めた物腰が魅力。義兄弟の絆で結ばれた若山富三郎扮する熊虎親分が毎回コメディ・リリーフとして登場し、鶴田浩二・高倉健・菅原文太らのスターが交互に出演して主人公を盛り立てる。シリーズ全八作はいずれも高い水準を保っているが、加藤泰監督による第三作『緋牡丹博徒 花札勝負』、第六作『緋牡丹博徒 お竜参上』、第七作『緋牡丹博徒 お命戴きます』が特に評価が高い。第六作『緋牡丹博徒 お竜参上』での、故郷に帰る流れ者・菅原文太にお竜がミカンを渡す雪の今戸橋のシーンは屈指の名場面とされる。本シリーズが大ヒットした1968年から1969年にかけて"東映任侠映画"は頂点に達した。緋牡丹博徒シリーズ フレッシュアイペディアより)

  • 薬師丸ひろ子

    薬師丸ひろ子から見た高倉健高倉健

    中学1年生のとき、角川映画第3弾『野性の証明』の長井頼子役にオーディションで選ばれ、高倉健との共演で1978年に映画デビュー。1980年に相米慎二の監督作品『翔んだカップル』に初主演する。翌1981年に再び相米監督作品に主演した『セーラー服と機関銃』がヒットする。薬師丸のデビュー曲でもある主題歌「セーラー服と機関銃」もヒットした。その後、主演映画『探偵物語』・『里見八犬伝』・『メイン・テーマ』・『Wの悲劇』と薬師丸が歌う主題歌「探偵物語」・「メイン・テーマ」・「Woman "Wの悲劇"より」のヒットが連続する。1984年に公開された澤井信一郎の監督作品『Wの悲劇』では演技も評価され、第27回ブルーリボン賞主演女優賞を受賞した。薬師丸ひろ子 フレッシュアイペディアより)

  • 昭和残侠伝 死んで貰います

    昭和残侠伝 死んで貰いますから見た高倉健高倉健

    『昭和残侠伝 死んで貰います』(しょうわざんきょうでん しんでもらいます)は、1970年9月22日に公開された日本の長篇劇映画、仁侠映画である。昭和残侠伝シリーズの第7作品として1970年に公開された。監督はマキノ雅弘、主演は高倉健。チーフ助監督を澤井信一郎が務めた。昭和残侠伝 死んで貰います フレッシュアイペディアより)

  • 昭和残侠伝 (1965年の映画)

    昭和残侠伝 (1965年の映画)から見た高倉健高倉健

    『昭和残侠伝』(しょうわざんきょうでん)は、1965年10月1日に公開された日本の任侠映画。監督は佐伯清、主演は高倉健、製作は東映。本作は高倉健の代表作として人気を得た昭和残侠伝シリーズの第1作である。本シリーズでの主人公の名は花田秀次郎として有名だが、本作では寺島清次となっている。なおのちに多くの映画を高倉健と共にする監督の降旗康男がこの作品で助監督をつとめている。昭和残侠伝 (1965年の映画) フレッシュアイペディアより)

  • 横尾忠則

    横尾忠則から見た高倉健高倉健

    1970年1月、タクシー乗車中の交通事故で生まれて初めての入院生活を経験。これを機に1-2年間の休業宣言を行う。この間も全作品展の開催やエッセイの連載、写真や小説などの新分野への進出を行っており、仕事をやめていたわけではない。横尾の休業宣言は、大阪万博のこの年、「人類の進歩と調和」のスローガンに浮かれていた世間に対する尖鋭的な表現でありえたし、1960年代以降の横尾の反体制的指向を象徴する出来事として受けとめられた。しかし9月には原因不明の足の痛みによって2度目の入院を余儀なくされ、ほとんど歩行不可となってしまう。深刻な病状に高倉健や浅丘ルリ子らも見舞いに訪れる。そんな中にあって、三島由紀夫だけが横尾に対し仕事をするように激しく叱咤激励した。三島が横尾に何としても仕上げさせたかったのが、細江英公の三島の写真集『新輯薔薇刑』の装幀(90頁)であり、篠山紀信撮影による写真集『男の死』の撮影であった。三島は自分の撮影を終えており、しきりに横尾に催促した。同年の後の三島の自決によって、横尾は大きな衝撃を受けその後も横尾の心を捉え続けることになる。三島の姿やイメージはのちの横尾の作品中にいく度となく登場する。写真集『男の死』は、その後封印されたままとなった。横尾忠則 フレッシュアイペディアより)

  • 大学の石松シリーズ

    大学の石松シリーズから見た高倉健高倉健

    大学の石松シリーズ(だいがくのいしまつシリーズ)は、日本で1956年 - 1957年に計4作が製作された、高倉健が主演の映画シリーズ(モノクロ)。配給・製作は東映。原作は宮本幹也。大学の石松シリーズ フレッシュアイペディアより)

  • 東映ポルノ

    東映ポルノから見た高倉健高倉健

    当時ピンク映画が、表立って宣伝もしないのに隆盛を極め、ソロバンをはじいてみると松竹の年間配給よりも総体で上回ることが分かり今度は懐刀の天尾完次プロデューサーを呼び「ピンク映画だけに儲けさせることはないぞ。こっちにはお得意の時代劇の衣装がある。あれを行かそう、大手の東映が豪華なエロ時代劇を作ろう。天尾、おまえやれ」「おれが石井輝男に撮らせる。おまえは、ピンク女優をかき集めてこい。裸でいくんじゃ」と指示を出した。これが実質的な「東映ポルノ」のスタートとなる。当時は大蔵映画、国映などの独立プロがこうしたエロ映画を製作していて大手五社が手を染めることは大きな抵抗感があったが、岡田は易々と一線を越えていく。岡田の指揮するエロ路線のうち、色の濃くないグロのつかない方を翁長孝雄プロデューサーが、グロの強い方を天尾完次プロデューサーが担当した。岡田が指示した好色路線としてのスタートは山田風太郎原作の映画化で、エロ忍者映画『忍びの卍』(鈴木則文監督、1968年)だったのだがこれも東映の女優が脱がなかった為に興行的に失敗した。東映専属の女優はなかなか脱いでくれなかった。この反省から好色路線をエスカレートさせ石井に作らせたのが1968年の豪華絢爛たる色欲大絵巻『徳川女系図』であった。本作はメジャー映画会社として初の成人指定映画で、本作の企画もタイトルも岡田の考案によるものでこの作品からノースターでピンク女優を大量投入、実質的な「エロ映画路線」は本作からであった。岡田はこれらを当初「刺激性路線」とネーミングしていた。石井は当時『網走番外地』という高倉健主演の超人気シリーズを手掛けていたが、もう飽き飽きしていて「何か別の事をやりたい」と岡田の要請に応えた。石井の"異常性愛路線"は、撮影所を冒涜したと助監督らが声明文を発する事態となってマスコミからのバッシングに遭い大きな論争を巻き起こした。岡田はこれに反論し「体制打破ということだ。昔、存在したようなファンは、今はテレビにかじりついている。だから、昔のファンに受けたような旧体制の映画を作っていたのでは、現代の映画観客をつなぎ止めることはでけんわ」と一蹴した。『徳川女系図』は1968年のゴールデンウィークのメイン映画として封切られたことでピンク映画界を震撼させた。しかし結果的に話題にもなり奇跡の大ヒットを記録、3000万円の製作費でたちまち一億円以上稼いだといわれる。『徳川女系図』ははタイトルに付いていないが「マルシリーズ」第四弾だったという見方もあり本来、岡田が目指した「大奥もの」の完成形はここにあったが、この路線は映画史の裏街道を歩む。石井は岡田の意図を大胆に表現、ヌード、セックスだけでなく、拷問、処刑等、グロテスクな描写を取り入れ、その後も「異常性愛路線」としてエログロをエスカレートさせていく。同年9月28日公開の『徳川女刑罰史』は、冒頭から首が飛ぶ!胴を斬る!衝撃の三段斬り!が展開される東映初の「SM映画」で、東の団鬼六、西の辻村隆といわれたSM界の巨匠が緊縛指導に付いて、地獄絵図そのままに、サディズムの極限を追求して徳川女刑罰十四種が繰り広げられる、その見世物性たるや今どきのSMビデオにも劣らない。清純派として売り出したはずの橘ますみが"空中海老吊り"にされ、水をかけられ悲鳴を上げ撮影が中断する凄惨な現場だったといわれる。映画評論家の佐藤忠男が『キネマ旬報』に本作を「日本映画の最低線への警告」と題して「エロ・グロと人格的侮辱のイメージを羅列していける神経にほとんど嘔吐感が込み上げる」「ピンク映画専門のプロダクションが作る映画でもここまで愚劣でない」などと酷評した。「大高宏雄は商業主義的な製作の姿勢は、企業映画だから会社内外で容認できるとして、そこからさらに逸脱した超=商業主義とでも言いたい製作の恐るべき発展形がそこにあった」と評している。『徳川女刑罰史』は、B級スターのみの出演にも関わらず、1968年の年間配給収入ベストテンにランクされ同じ東映で鶴田浩二や高倉健、藤純子ら出演の任侠映画『人生劇場 飛車角と吉良常』(内田吐夢監督)を上回るコストパフォーマンスの高さだった。1969年の『徳川いれずみ師 責め地獄』では、由美てる子が逆さ片足吊りで一日中吊るされるなどの異常な撮影で失踪した(代役が片山由美子)。同年の『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』は興行で惨敗し「異常性愛路線」も惨めな終了を迎えた。しかし1980年代に入り、アメリカから「カルト映画」の概念が入って来て復活、リアルタイムを知らない新しい映画ファンの間で口コミで評判が広がり、以後20年に渡って名画座の定番作品となった。『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』は日本映画をカルトな視点から観るその先駆けといわれる。東映ポルノ フレッシュアイペディアより)

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